タニヤ昔話

朝、タニヤ通りにあるカラオケスナックが抱えている問題を解決するため、この界隈で20年以上働いているというチーママ(フロア責任者)と商務省の出先機関へ行った。そして昼食を取っているときに興味深い話を聞いた。

日本の大蔵省銀行局長が1990年3月に「土地関連融資の抑制について」という通達(総量規制)を出したのにともない、それまで日本経済の根幹部分を支えてきた長期信用全体が崩壊した。日本国内の景気は1991年10月を境に急速に後退して、以来ずっと深刻な不況が続いている。それとほぼ時を同じくして、日系企業の接待によって需給の均衡を維保ってきたタニヤ通りのカラオケスナックでは接待費削減の煽りを受けて価格崩壊が起こり、とうとう1時間飲み放題500バーツの店まで登場するようになるなど、ディスカウントが蔓延る大衆の街へ変容していったという。

「20年前のタニヤ通りは今とはまったく違っていた。カラオケスナックはどこも会員制で、はじめての客は会員からの紹介がなければ店に入ることもできなかった。当時はタニヤ通り全体がいわゆるハイソな街を形成していて、料金相場も現在の数倍はしていた。ホステスの質はもちろん、容姿もサービスも今とは比較にならないほど優れていた」とチーママは話していた。

日本人客に対するホステスの接し方も、いまのイメージとはかなり違っていたという。いまではホステスの連れ出し料金を店に払えば誰でも簡単にホステスを連れ出すことができるけど、当時は会計前に自分の部屋の電話番号を書いた紙切れをホステスにこっそり手渡して、もしホステスにその気があって午前1時頃に電話がかかってくれば夜をともにできるという仕組みだったようだ。

「近頃はまるでゴーゴーバー(娼婦の裸踊りバー)のような下品な街になってしまったわ。あの頃が懐かしい」

しばしば日本の宮家の方が大規模な車列とともにタニヤ通りへ来るらしい。いまのタニヤしか知らない僕からすると「どうしてこんな品のない街にわざわざお出ましになるんだろう?」としか思わないけど、当時の価値観ではタニヤ通りへ来ることもそれなりにサマになっていたのかもしれない。

その後、もう一ヶ所のオフィスに寄ってから、別の友人が経営する会社でバイトした。

今晩、ある会社の社長から会社の公的な資料をタイ語に訳してほしいと依頼された。翻訳料はA4用紙7枚半で10,000バーツ。納期は一週間後。エーンと協力してなんとか期限内に仕上げたい。この請負額が妥当かどうか、まだ僕には分からない。

ABOUTこの記事をかいた人

バンコク留学生日記の筆者。タイ国立チュラロンコーン大学文学部のタイ語集中講座、インテンシブタイ・プログラムを修了(2003年)。同大学の大学院で東南アジア学を専攻。文学修士(2006年)。現在は機械メーカーで労働組合の執行委員長を務めるかたわら、海外拠点向けの輸出貿易を担当。