“แฟนควรมีฐานะปานกลางขึ้นไป”
「恋人は中流以上の身分にあるべき」
あさ、スクンウィット13街路にある住まい Sukhumvit Suite 17階の自室で、恋人の要件について電話で友人と話し合っていたところ、またしてもタイの「階級社会」の話題になった。
われわれ日本人は、大正自由教育と左翼的なイデオロギーが奇妙に融合している理念にもとづいて、学校でさまざまな道徳教育を受けて育ってきている。そのため、ほとんどの日本人にとって、職業や世系に対する差別には根強い抵抗感があるかもしれないが、タイは階級社会であり、タイ人を語るうえで無視することはできない。タイ人は、この階級社会という思想にもとづいて、階層別の閉鎖的かつ排他的なコミュニティーを形成している。したがって、タイ人のあいだでは、同程度のコミュニティーに属している友人と行動し、恋愛することが当然と考えられている。
準上位国立大学に通っているこの友人に、「フツウの恋人」とはいったい何なのか聞いてみた。
“ รายได้แน่นอนกะไม่ถูก แต่การศึกษาป.ตรีขึ้นไป มีความรู้ ไม่โง่ มีความคิด และสามารถ เข้ากันได้ในหลายๆอย่าง ถ้าเป็นไปได้ ไม่เคยคบแฟนที่เรียนราชฏัชเลยซักคนเดียว”
「安定した収入さえあれば、低くない程度でいい。4年制大学以上の知識があって、きちんと自分の意見を持っていれば、愚かじゃない程度でいい。いろんな部分で気が合う人で、できれば過去にひとりたりともラーチャパット大学の学生を彼女にしたことのない人がいいわね」
この2行のなかに、この友人の階級社会的な思想が凝縮されている。
一行目の「4年制大学以上の知識があって自分の意見を持っていれば、愚かじゃない程度でいい」という部分で、この友人は4年制大学に通っている人を「フツウ」と定義している。
そして二行目の「できれば過去にひとりたりともラーチャパット大学の学生を彼女にしたことのない人がいい」という部分で、この友人は一定以上のコミュニティーに属していることを「フツウ」の人に要求している。また、これには「ラーチャパット大学の学生とつるんでいる層」に対する偏見が含まれている(ラーチャパット大学の学費は安く、貧しい地方出身者が多いことで知られている)。
タイという階級社会において、相対的な価値基準である「フツウ」という概念は、話し手の環境によって、どのようにでも変化するものだ。この友人はラーチャパット大以下の学生を失格としているが、ヂュラーロンゴーン大学の一部の学生たちのあいだでは「ヂュラー以外はムリ」といった声もあるし、私立大学の一部の学生たちは「自分もフツウの範疇に入っている」としながらも、大卒未満の人々を平然と見下している。
この友人によると、彼氏が通っている大学としては、マヒドン大学(医療看護系に強い国立大学)、アサンプション大学(英語に強い私立大学で学費が高い)、タンマサート大学(賢いがエリート意識が鼻につかない)の順に望ましいという。
その後、当然のように、それぞれの大学に通っている学生たちの長所や短所について話題は発展していくことになるわけだが、そのような偏見に満ちた各論はここでは割愛したい。
こうして、封建時代から延々と受け継がれてきた、タイにおける階級社会的かつ排他的なコミュニティーの文化が、「自分と同程度もしくはそれ以上」の人たちの手によって継承されていく。そして、貧しく、教養もない娼婦などは、誰もが簡単に否定できる便利な存在として、各級のコミュニティーから軽蔑され、差別を受け続けていくことになる。
ちなみに、東京大学社会科学研究所の末廣昭教授によると、タイの中間層とは、【社会的地位】国営企業や大企業のホワイトカラーのほか、中級以上の公務員や自営業者などで、【経済力】月収が2万~3万バーツ以上ある世帯で、自家用車、携帯電話、家電・OA機器、土地付きの自宅などを所有し、【教育】 大卒または短大卒以上の高等教育を受けた階層(現在の大学進学率は学齢人口の70%以上, 2003年)とされている。
“แต่ก้ออย่างว่าทุกสถาบันมีทั้งดีและไม่ดี อย่าไปยึดติด”
「でも、どこの教育機関だって、良い人もいれば悪い人もいるんだから、一部分だけを見て全体を判断するのは良くないわ」
この友人は、最後に一応のフォローを入れておくのを忘れなかった。
あさ、自室で「フツウ」という価値観について友人と電話で話し合った。夕方、タオプーンにある自動車整備工場へ別の友人と行って、先日のラオス旅行中にエンジンに異常が発生したクルマを預けた。その3軒となりにある大衆食堂でカーオマンガイとカーオムーデーングを食べてから、タクシーで地下鉄のバーングスー駅まで移動し、地下鉄スクンウィット駅からタクシーで帰宅した。
日本であるつり合わないという概念は、例えばわたしの家の例で言えば、祖母曰く*歴史が違う*ということに集約されます。
彼女曰く、一代で築き上げ家とは所謂*成り金*に過ぎず、
東大意外は、大学にあらずという感覚を祖母以下皆共通認識として持っています。
因みに家の家系全体で言えば、わたしを除いて皆日本のトップの高校、大学を卒業し、祖父には、自分の出身校である帝国大学の校歌を毎回のように聴かされると言う環境の中で育ちました。
祖父の父は、吉田茂と行動を共にした人間であり、ある一時代の日本の中枢を支えてきた人間です。家は戦後一時期アメリカ占領軍の将校の家として接収されていました。
例えば、私の出身高校は偏差値60を少し超えた辺りの私立ですが、母からは制服を着て近所の人間の目に触れられる時間に出歩く事を禁じられました。妙な話しですが、出身校だけでなく住む地区(葛飾、足立等)の人間とは付き合う事を禁止され(下級労働者の住む町という認識から)それを当たり前のように感じ、過ごしてきた自分がいるのです。因みに私は現在30です。
実はこうしたコミュニティーというのは、未だに日本の中では確実に受け継がれ存在していますが、現在の日本ではそれを表現する事が非常に卑しい事、貧しい事として捉えられること、みな平等という幻想社会の中では認められないものであると認識されていることから単純に表に出てこなくなっただけだと感じています
。
こうした概念はタイでも日本でも実は大して変わらないのではというのが私の解釈です。
因みにわたしの住む地区は都内でも学歴層の高い職業の人間が集まって住んでいる地区です。(公立を除き、学校もそういうところしかない)その道を1本隔てると都営住宅が広がっていますが
、ここの住民に対する差別感情というものは、わたしたちの地区の人間からすると相当のものがあります。
今でこそ整備されましたが、道1本隔ててクロントゥーイのスラムが存在しているような感覚すら、子供の頃は私の地区の人間の刷り込みによって抱いていたのを覚えています。
日本であるつり合わないという概念は、例えばわたしの家の例で言えば、祖母曰く*歴史が違う*ということに集約されます。
彼女曰く、一代で築き上げ家とは所謂*成り金*に過ぎず、
東大意外は、大学にあらずという感覚を祖母以下皆共通認識として持っています。
因みに家の家系全体で言えば、わたしを除いて皆日本のトップの高校、大学を卒業し、祖父には、自分の出身校である帝国大学の校歌を毎回のように聴かされると言う環境の中で育ちました。
祖父の父は、吉田茂と行動を共にした人間であり、ある一時代の日本の中枢を支えてきた人間です。家は戦後一時期アメリカ占領軍の将校の家として接収されていました。
例えば、私の出身高校は偏差値60を少し超えた辺りの私立ですが、母からは制服を着て近所の人間の目に触れられる時間に出歩く事を禁じられました。妙な話しですが、出身校だけでなく住む地区(葛飾、足立等)の人間とは付き合う事を禁止され(下級労働者の住む町という認識から)それを当たり前のように感じ、過ごしてきた自分がいるのです。因みに私は現在30です。
実はこうしたコミュニティーというのは、未だに日本の中では確実に受け継がれ存在していますが、現在の日本ではそれを表現する事が非常に卑しい事、貧しい事として捉えられること、みな平等という幻想社会の中では認められないものであると認識されていることから単純に表に出てこなくなっただけだと感じています
。
こうした概念はタイでも日本でも実は大して変わらないのではというのが私の解釈です。
因みにわたしの住む地区は都内でも学歴層の高い職業の人間が集まって住んでいる地区です。(公立を除き、学校もそういうところしかない)その道を1本隔てると都営住宅が広がっていますが
、ここの住民に対する差別感情というものは、わたしたちの地区の人間からすると相当のものがあります。
今でこそ整備されましたが、道1本隔ててクロントゥーイのスラムが存在しているような感覚すら、子供の頃は私の地区の人間の刷り込みによって抱いていたのを覚えています。
僕はバンコクにおける「新興中産階級」の特性を、日本における「伝統的上流階級」の特性に擬えて考察を加えるということに社会学的な意義や妥当性を見いだすのは困難であると考えています。いずれにしても、これ以上のコメントをすることが賢明なこととも思えないので、削除せずに掲載するだけに留めておきたいと思います。
なお、「日本における階級社会」なんていうテーマの議論をこのブログで始められてはかなわないので、「削除要請」以外の追加投稿をしないでいただければ幸いです。
僕はバンコクにおける「新興中産階級」の特性を、日本における「伝統的上流階級」の特性に擬えて考察を加えるということに社会学的な意義や妥当性を見いだすのは困難であると考えています。いずれにしても、これ以上のコメントをすることが賢明なこととも思えないので、削除せずに掲載するだけに留めておきたいと思います。
なお、「日本における階級社会」なんていうテーマの議論をこのブログで始められてはかなわないので、「削除要請」以外の追加投稿をしないでいただければ幸いです。