タイに夢見るセックスツーリストたちの世界観

「品のない安っぽい香水のにおいをまき散らしているカラオケのホステスを連れた男性・・・・・・(後略)」

夜、スクンウィット27街路にある日本料理店 SAMURAI へ行って友人と酒を飲んでいたところ、店に置いてあったバンコク発行のミニコミ誌に、某日本料理店の経営者による苦言として、冒頭にあるような文言が掲載されていた。

旅行オタク

日本国内におけるオタク分析のパイオニアである野村総合研究所の調査報告書「マニア消費者市場」によると、オタクとは、強いこだわりを持っている分野に、趣味や余暇として使える金銭または時間のほとんどを費やし、かつ、特有の心理特性を有する生活者のことと定義されている。日本国内に172万人(推定市場規模4,110億円)いて、そのうちの25万人(推定市場規模810億円)が「旅行オタク」に分類されている。

ひとことで「タイが好き」といっても、いくつかのタイプに分かれている。僕はタイ人とタイ語でコミュニケーションをとることで新しい価値観に触れるのが好きというタイプだが、なかには割安な古式マッサージでリラックスをしたりホテルの高級ビュッフェへ足繁く通って美食を楽しんだりしたりするのが好きというタイプの人もいる。

そして、タイ人の娼婦が好きなことを「タイが好き」と言って憚らない日本人男性も少なくない。

タイ娼婦オタク文化と妄想の世界

日本における引き籠もり研究の第一人者で精神科医の斎藤環博士は、著書「戦闘美少女の精神分析」(2000年)のなかで、おたくの本質的な特徴は、虚構コンテクストに対する高度な親和性であり(p.49)、おたく文化には、ヒステリーの症状が虚構空間、すなわち視覚的に媒介された空間で鏡像的に反転する特性がある(p.272)と書いている。また、国際大学グローバルコミュニケーションセンターの東浩紀教授は、おたく文化について、象徴界の欠如を、イメージの操作によって、なんとか補おうとしたもの、と説明している。

それぞれ引用した部分の表現が難しすぎるため平易な表現に言い換えてみると、オタクには、現実の世界では得られないものをムリヤリ補うために、妄想によって創られた世界に没入しやすく、妄想と現実を混同させてしまう傾向がある、ということになる。

このような傾向は、娼婦が好きなことを「タイが好き」と言い換えている一部の日本人男性たちのあいだにもみられる。なかには、年単位の長期間にわたって、ずっと妄想の世界のなかに引きこもり続けている日本人の男性も少なくない。彼らのあいだに見られる現象を、上記に引用したオタク分析の文脈にのっとって再定義してみると、つぎのようになる。

【象徴界の欠如】 まともに女性から相手をしてもらえないこと。

【ヒステリー化】 女性への魅了という不可視的な本質(リアリティー)を、娼婦という「可視的な表層」(セクシュアリティー)によって代替すること。世間一般のタイ人たちが女性としてみなしていない娼婦に対して、女性相当の価値を与えること、またそうすることで自らが理想としている妄想の世界を作り上げること。

【視覚的に媒介された空間に鏡像的に反転したもの】 言語的なコミュニケーションがとれないこと、すなわち日本人によるタイ語力の欠如とタイ人による日本語力の欠如を利用することで、自分を無視したり否定したりといったこと(トラウマ)のない女性として見立てた娼婦、また、そのような人たちに囲まれて生活ができる妄想の世界。

【娼婦オタク】 世間一般のタイ人たちが女性としてみなしていない娼婦に女性相当の価値を与え、その「所有者」として振る舞い、娼婦を取り巻く環境にさまざまな幻想を抱いて、自らが作り上げた妄想の世界に浸っている人々のこと。実態から著しく乖離している娼婦の価値や社会的な位置づけなどを独自に設定して、その実態を無視することで、特定あるいは不特定多数の娼婦について熱心に語り合う人々のこと。

彼女たちの本質としてみなしうるものは、単純にその虚構性のみであるため、娼婦オタクにとって、女性とは必ずしも世間一般のタイ人たちから認知されている「女性」である必要はない。ゆえに、形態的な多様性に幅を持たせることができるようになり、娼婦を理想の女性と思い込むこともできる。また、彼女たちがたまたま娼婦であっても、現実の社会属性とは無関係なものとしてみなすこともできるようになる。

つまり、娼婦が好きなことを「タイが好き」と言い換えているような一部の日本人男性たちは、突き詰めて考えてみれば、セクシュアリティーを利用することで、現実と思い込みながら、現実以上にリアルな「虚構としての現実界」、すなわち本人が現実と思い込んでいる妄想の世界のなかで生活しているということになる。

「現実」にリアリティーが感じられないのはポストモダンの象徴とされているが、このような一部の日本人男性たちあいだで、虚構と現実とのあいだにある穴を埋めるために特異に発達した文化が、タイ人の娼婦たちを世間一般のタイ人女性と同一のものであるとみなし、それを標準化しようと試みる「タイ娼婦オタク」たちの文化なのである。

(コイツら、こんなものを作って、マジでタイ人に失礼だ。土下座して謝れ)

タイ娼婦オタクが発信している情報

前出の学者は、オタク文化における情報の発信について、次のように書いている。

逆説的なことに、そこに浮かびあがっているのは、新人類とオタクとの等価性である。現実を<物語>として生きる「対人関係記号派」を新人類とすると、現実ではなく<物語>に生きる「対人関係退却派」がオタクという対照性は、たしかに見出される。この両者は、<物語>=フィクション形成の母体として、<物語>が流通する場としての「メディア」と、<物語>の分化を許容する場としての「高度消費社会」を、ともに不可欠としている(p.188)。

タイ娼婦オタクたちは、価値観の多様性を口実に、ウェブサイトや書籍といったメディアを利用して、さまざまな物語(フィクション)を作り上げている。そのため、現実世界から乖離しているとんでもない情報がインターネット上に氾濫するようになる。

タイ娼婦オタクたちは、べつに「タイが好き」というわけではない。自分次第でいくらでも都合良く解釈できる、自分とは言葉が通じない娼婦との、妄想の世界を愛しているのにすぎない。だから、言語的なコミュニケーションが可能で、しかも現実の恋愛を要求してくる世間一般のタイ人女性たちの存在は、タイ娼婦オタクたちにとって、自分が引き籠もっている「妄想の世界としてのタイランド」を崩壊させかねない重大な脅威となるため、世間一般のタイ人女性に関する情報は、なにがなんでも否定もしくは粉砕すべき対象としている。

(だから、世間一般のタイ人を標準的なものとして紹介し、娼婦たちが直面している厳しい現実にスポットライトを当てて、それがいかに特殊な存在であるかを繰り返し説明している「バンコク留学生日記」ほど、タイ娼婦オタクたちとってイヤなブログはそうそうないと思う)

オタクとは、世間一般の人々から好奇な存在として認識されている。すなわち、価値観が常軌を逸しているため、常に忌避され嫌悪の対象になっている。アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」が登場した1995年以降、オタクと新人類の境界はあいまいになったとされているが、それでも「カネで買った娼婦」を「恋人としての女性」と同一視しているタイ娼婦オタク独特の価値基準は、セル画に描かれている戦闘美少女たちに本気で恋をしているオタクたちの価値観と同じくらい受け入れがたい。

オタクには、自分自身の価値基準が世間一般の人々から受け入れられていないという自覚に乏しい。もし仮に自覚していたとしても、それが世間一般の価値基準から大きく逸脱しているという認識は持っていない。当然、オタクに向かって「おまえはオタクだ。現実を直視せよ! Open your eyes!! 」などとがなり立てたところで、あまり効果は期待できない。

これからタイに関する情報を収集しようと考えている方には、タイ娼婦オタクたちが発信している情報が、常に妄想の世界のうえに成り立っているということを認識し、どんなに血迷っても絶対に真に受けることがないよう、常日頃から自己防衛を心がけるようにオススメしたい。

(かくいう僕自身も、留学初期において、タイ娼婦オタクたちが共有している独特な世界観に基づいて発信されている情報にはかなり翻弄された)

僕たちは現実の世界に生きている。しかし、もし自己防衛の努力を怠り、タイ娼婦オタクたちが作り上げた妄想の世界のなかへ一度でも吸い込まれてしまったら、もう二度と現実の世界へ戻ってくることができなくなるかもしれない。日本人であれば誰でもある程度は保証されている、日本人としての標準的な生涯賃金をはじめ、社会保険や厚生年金まで失ってしまったら、もうサイアクだ。

バンコクにある日本料理屋へ行って、店の扉を開けたときに、等身大の戦闘美少女のフィギュアと向かい合って食事をとっている客ばかりで店が溢れかえっていたら、どう思うだろうか? 普通の感覚を持っていれば、奇異なものとして、激しい嫌悪感を抱くに違いない。それと同じで、娼婦と一緒に飲食店で食事をとっている日本人男性たちの姿が、周囲にいる人々の目にどのように映っているか、想像するのは、それほど難しくはないだろう。

娼婦は、等身大の戦闘美少女フィギュアと同様に、きわめて不自然な存在であり、場の雰囲気を悪くする。そんな客だらけになってしまったら、その飲食店はまともな客から見放されてしまうだろう。そう考えてみれば、冒頭で紹介したミニコミ誌で、店主が愚痴を書きたくなるのも十分に理解できる。

きょうは、スィーロム通りにある珈琲屋へ行ってタームペーパーを夕方まで書いてから、スクンウィット27街路にある日本料理屋 SAMURAI で友人と夕食をとった。

バンコクの日本人社会における最大の悩みのタネとは、すなわち虚構空間のなかで生きているトライブ(部族)との共存問題なのかもしれない。

ABOUTこの記事をかいた人

バンコク留学生日記の筆者。タイ国立チュラロンコーン大学文学部のタイ語集中講座、インテンシブタイ・プログラムを修了(2003年)。同大学の大学院で東南アジア学を専攻。文学修士(2006年)。現在は機械メーカーで労働組合の執行委員長を務めるかたわら、海外拠点向けの輸出貿易を担当。