「この長蛇の列に並んでいるのは、3連休を利用してやってきたカジノ客たちだ。出国審査場は8時に閉鎖されるから、それまでに手続きが終わらなければ街まで引き返すことになるだろう。これから君がその列の最後尾に加わったところで、もう間に合わないんじゃないかな? それに、クルマをカンボジアへ持ち出すというのは、あまりにも無謀だ。鍵穴をこじ開けられて、盗まれるのが関の山だろう。そのとき、わたしが君を助けるために何かをしようとしたところで、カンボジアの領内で発生した事件については手の出しようがない。やめておいた方が良い」
午後7時10分、タイとカンボジアの国境「アランヤプラテート国境」があるローングルア市場に直結しているスワンソーン通りは、すでに夕闇に包まれていた。遠くに、ひときわ明るい光を放っているカンボジア側のポーイペートにあるカジノ街が見えた。道路の中央分離帯に立っている「許可車両以外の通行を禁じる」と書いてある看板を無視して、そのまま出国審査場へ向かった。そこで、周辺を警備していた国境警備隊の隊員から入管の担当係官がいる場所を教えてもらい、その先にある徒歩用の国境ゲートへ行った。
車両用の出国審査場を担当している壮年の小柄な係官は、出国審査の受付が終了する時刻にまだなっていないにもかかわらず、掘っ立て小屋のような仮設のオフィスの裏側で、すでに同僚たちと酒を飲みはじめていた。別の係官から呼び出されて、ようやく席を立ち、冒頭にあるように話してから、「まあ、またあした改めて来ればいいじゃないか」とアドバイスをくれた。
やむなく車両用の出国審査場にあった職員専用の駐車場にクルマを駐めて、駐車場の警備員に破格のチップを手渡し、徒歩用の出国審査場の前にできていた400人ぐらいの長蛇の列の最後尾に並ぼうとしたところ、ボロボロな服を着ているカンボジア人の浮浪児(なぜか自由に国境を往来できている)が近づいてきて言った。
「お兄ちゃん、5バーツちょうだい。クスリを買うためにどうしても必要なの」
―― はてさて、いったいどんなクスリを買うために必要なんだい? と、旅行者の軽いノリで受け答えをしても良かったが、このような手合いに関わるとロクなことがない。ここで根負けをして最初の5バーツを手渡せば、つぎの5バーツを手に入れるために無数の浮浪児たちが殺到してくることになる。
ところが、今回はそうではなかった。
「お兄ちゃんはタイ人じゃない。外国人はこの列に並ぶ必要ない。わたしの後に付いてくる」
カンボジア人の女児は、片言のタイ語で、とても貴重な情報を提供してくれた。さっそく女児のあとについて歩き、タイ人約400人と外国人30人が並んでいる列の横を素通りして、長蛇の列の最前列に躍り出た。
最前列で人々の流れを管理していたカンボジア人の青年は、浮浪児が「◎▲※◆□ジャポン」と言うと、タイ人の入管職員による了解を取ってから、こちらへ向かって手招きをして僕を呼び寄せた。タイ人のオバさん連中が「ルールを守って列に並びなさい!」とタイ語で叫んでいたが、女児に20バーツの札を2枚掴ませて柵を乗り越え、冷房でキンキンに冷えている出国審査場の建物のなかへ入った(オバさん連中は僕をタイ人と勘違いしていたようだが、僕が乗り越えたのは誰も並んでいなかった閉鎖中の外国人用ゲートだ)。
「兄貴、これからどこへ行くんですか? わたしはタイ人の恋人と付き合っていたことがありますから、タイ語を話せます。気持ちばかりのお金さえいただければ、シアムリアップでもプノンペンでも、カンボジアの国内ならどこへでもお供いたしましょう」
出国審査場の建物から外へ出ると、小汚い格好をしているカンボジア人の青年が近づいてきた。普段なら無視をしてやり過ごすところだが、今回の旅行の目的は、いまだ足を踏み入れたことがないポーイペートの市街地をくまなく探索して、巷に流布している怪しげな情報の真偽を自分の目で確かめてみることだった。そのためには、やはりガイドがいた方がいろいろとやりやすいだろうし、心が通じるレベルのタイ語が話せればそれで十分。人間、心が通う相手をそう易々と殺そうとはしないはずだ。そう考えて、このカンボジア人の青年を雇い入れた。
カジノ街の手前、ホテル Holiday Palace の入口付近にある事務所で、審査手数料として1,000バーツを支払ってカンボジアの到着ビザを発行してもらい、カンボジア人の青年と簡単な自己紹介を済ませてから、カジノ街の奥にあるカンボジア側の入国審査場へ向かった。ここから先が、本物のポーイペート市街だ。ロータリーの奥に見える Poipet Guesthouse (400バーツ)にチェックインをして、客室にある鍵付きの洋服ダンスのなかに、ノートパソコンと現金36,000バーツが入っているカバンを隠してから部屋を出て、さっそくポーイペートの街を案内してもらうことにした。
カンボジア国道6号プノンペン・ポーイペート線は、アスファルトで舗装されてはいるが、手入れが行き届いていないためボコボコになっており、バイクが通過するたびにものすごい砂ぼこりが舞っていた。目のなかへ侵入してくる大量の砂ぼこりに悩まされながらも、国境があるカジノ街とは反対方向のプノンペン方面へ歩いていくと、右手に派手なホテルが見えた。
「まだホテルを決めていないようでしたら、ここをご紹介しようと思っていたんですよ。カラオケだけではなく、性感マッサージもあります。とはいっても、ここの娼婦たちはクスリにハマっていて、そのクスリを買うために身体を売ってカネを稼いでいるような、碌でもない連中ばかりですがね。特に、このホテルでは、ヤーバーやエクスタシーのほか、ヘロインも蔓延しています」
東南アジア地域における売春は、おもに違法薬物の購入資金を賄うために行われている。そのため、娼婦の麻薬汚染率はすさまじく高い。
タイの首都、グルングテープマハーナコーン(バンコク)は、タイ語の名称をそのまま日本語に直訳すると天使大都という意味になる。しかし、一部の日本人男性たちは、バンコクの地を這う小汚いドブネズミにも等しい、麻薬に汚染されている娼婦たちを「天使」と呼んで、天使の名を辱めている。そんな堕落退廃不義虚栄の象徴を崇め奉って、どうするつもりなんだ?
小さな路地を左折すると、カンボジア人の青年が言った。
「ここがポーイペートのバスターミナルです。外国人の観光客たちは、国境の前にあるロータリーをバスターミナルと勘違いしているようで、法外な運賃を支払い、そこからロットゥー(ミニバン)に乗ってシアムリアップやプノンペンへ向いますが、ここから乗れば普通に正規料金で行けるんですよ」
バスターミナルがある薄暗い未舗装路の両脇には、ピンク色の照明が眩しい置屋(簡素なセックス小屋)や謎の飲食店が並んいた。さらにその奥へ入っていくと、屋外映写場とキックボクシングの試合場を兼ねている空き地があった。木戸賃はひとり50バーツだった。
そこでキックボクシングを2時間ほど観戦したが、その間、観客たちのあいだでは小規模な乱闘騒ぎが頻発していた。小銃を肩にかけている兵士が鎮圧にあたり、そのたびに観客たちはプラスチック製の椅子の上に総立ちになって盛り上がった。最後試合では、重大な八百長が発覚し、双方の選手が除名処分となった(カンボジア語のアナウンスをタイ語に通訳してもらった)。
試合終了後、カンボジア国道6号線へ戻る途中、さっきからずっと気になっていた「全員が道路に向かって座っている謎の飲食店」に立ち寄ってみることにした。扉のない店の入口をくぐると、奥にある椅子まで案内され、そこで店の入口のほうを向いて座った。店の入口の両脇には、店の奥に向かって設置されているテレビがそれぞれ1台ずつあって、左側のテレビには香港映画、右側のテレビには無修正の日本のアダルトビデオが映っていた。いい歳をした20人からの大人たちがコーラを飲みながら、それをじっと眺め続けている。このシチュエーションをどうやって楽しめばいいのか分からず、20分もしないうちに店を出た。これでは香港映画にもアダルトビデオにも集中できない。
ポーイペートの街は、タイとの国境がある付近に外国人専用のカジノがあって、その奥にある市街地へ入ると置屋と麻薬がある。それ以外には何もない。まともな商店もなければ飲み屋もない。あるのはせいぜい屋外映写場兼キックボクシングの試合場、それと、アダルトビデオと一緒に見る謎の映画館ぐらいのものだ。
バスターミナル前の未舗装路は、昨晩降った大雨のせいでぬかるんでいた。革靴がぬかるみのなかへ何度もめり込み、右往左往しながら歩いた。左右に並んでいる風俗店を冷やかして回っているうちに、タイ語を話す娼婦たちと意気投合し、麻薬を使っている現場を実際に見せてもらえることになった。
「警察? あっはっは。そんなものがこの街にいるとは聞いたことがないわ」
14歳から25歳ぐらいまでのベトナム移民の娼婦たちは、「ヤーバー」と呼ばれている麻薬を気持ちよさそうに吸いながら、そんなメチャクチャなことを言ってのけた。そうか、この甘ったるい香りを放つクスリのために身体を売っているのか。
ヤーバーとは、日本でヒロポンやシャブと呼ばれていたものと同じ、メタンフェタミン系の覚醒剤で、現在、東南アジアの一帯で猛威をふるっているのは、日本でアイス、スピード、エクスタシーなどの名称で知られている、あぶって吸引したり内服して摂取できるタイプのもので、強い覚醒作用や精神賦活作用があるという。カンボジア人の娼婦たちによると、ヤーバーを吸引すると元気が漲ってきてジッとしていられなくなり、どんなことでもいいからやりたくなるという。クスリの効果が切れると、強い疲労感や虚脱感を感じるため、強い回帰性があって危険だといわれている。末端価格は1錠100バーツ前後。
つづいて、ガンチャーと呼ばれる大麻を見せてもらった。カンボジア人の娼婦たちによると、ここではヤーバーが圧倒的な人気を得ているため、大麻の利用はあまり一般的ではないという。なるほど、このハッパとハッカを混ぜ合わせたかような生臭い臭いを放つクスリのために、前途有望な日本のアーティストたちが警察に次々と検挙されているのか。
大麻はクワ科の一年草。中央アジア原産の植物で、古代から繊維用として栽培されてきた。葉などをあぶってその煙を吸うと、 THC という成分によって、酩酊感、陶酔感、幻覚作用などをもたらす。カンボジア人の娼婦たちによると、味覚、嗅覚、聴覚が異常に発達して、料理が美味しくなってクラブも楽しくなるという。一方、免疫力の低下や白血球の減少などに見舞われるほか、「大麻精神病」と呼ばれる独特の妄言や異常行動、思考力の低下などを引き起こし、「フラッシュバック」と呼ばれる後遺症にも苦しめられるという。末端価格は500mlのペットボトル一杯で300バーツ程度。
2005年度の前期に受講した東南アジア麻薬流通論で、麻薬は脳に修復不能な損傷を与えると教わっていたため、娼婦たちから勧められても手を出さずに済んだ。それに、カンボジア人の娼婦たちが、深夜のスクンウィット通りを徘徊している娼婦に輪をかけて不潔で病的だったため、買春にも手を染めずに済んだ。
深夜、ポーイペートの市街地とカジノ街のあいだは、治安上の理由から完全に封鎖され、通行できないようになっている。そこで、カジノ街の北にある抜け道からカジノホテル Star Vegas の裏へ出てカジノ街へ向かった。カジノホテル Star Vegas にあるクラブ「ナングレン」は、大麻の強烈な臭いが充満していた。
大通りの向かい、カジノホテル Holiday Poipet の脇にある貧しさ炸裂の掘っ立て小屋で夜食の即席麺を食べていたところ、小汚い格好をした男が変なタイ語で「オンナはいらんかね?」と言って近寄ってきた。それを断ると、今度はガンチャー(大麻)を勧められた。
カンボジア・バンテイメンチェイ州にあるポーイペートという街は、まさに堕落と退廃という言葉がピッタリだった。麻薬と性風俗が横行している街。警察と正義が存在しない街。そしてバンコクより物価が安い街。
麻薬や性風俗だけを生き甲斐にしていたり、客が入らない風俗店を営んでいるようなバンコク在住の不良日本人たちは、みんなポーイペートに移住してしまえばいいんだ。ポーイペートには、不良の貧困日本人たちが必要としているものすべて揃っている。しかも、カンボジアには都市部の中間層が形成されていないから、中間層の現地人を「ハイソ」と呼んで卑屈にならなくても、日本人として堂々と振る舞い、自由気ままな生活を送ることができるだろう。そこで不良日本人たちが格安の性風俗と麻薬を思い存分に堪能し、それでわれわれまともな日本人が住んでいるバンコクの日本人社会が清潔になるのなら、みんなハッピー。誰も何にも損しない。
宿泊先の Poi Pet Guesthouse へ戻るバイクタクシーのなかで、カンボジア人の青年が言った。
「この街では、拳銃が6,000バーツの安値で取引されている。先日、俺の友人も2,000バーツで自分の拳銃を売り払っていたよ。君は俺を信用し、俺も君を信用しているから問題はないが、常識的に考えて、君の行動は明らかに自らの生命を危険に晒している」
あんな真っ暗で何もないカンボジア国道6号線を、バイクタクシーに乗って40分も深入りするなんて、本当にどうかしていた。
午後3時ごろ、スクンウィット5街路にある Food Land へ行って昼食をとった。午後4時半にナコーンナーヨック市、午後6時にサゲーオ市を通過して、午後7時10分にアランヤプラテート国境に到着。カンボジア・バンテイメンチェイ州にあるポーイペートの市街地を見物した。
ああ、おもしろかった。アランヤプラテートの向こう側の町。気になっていました。これからもおもしろい話を期待してます。でも、命は大事に。
ああ、おもしろかった。アランヤプラテートの向こう側の町。気になっていました。これからもおもしろい話を期待してます。でも、命は大事に。
> 月餅さん
はじめまして。僕もメチャクチャ気になっていたんですよ。もうたぶん「向こう側の街」に行くことはないと思いますが、これで謎が解けたって感じで清々しています。
> 月餅さん
はじめまして。僕もメチャクチャ気になっていたんですよ。もうたぶん「向こう側の街」に行くことはないと思いますが、これで謎が解けたって感じで清々しています。