「わたしたちがやらなくて、ほかに誰がするというのよ? 親友なら、やっぱり2時間前には会場に来て手伝っていないとマズいわよね」
午後5時15分、ラッチャヨーティン交差点のちかくにある象形のオフィスビル「トゥックチャーング」12階の関係者控室で、新郎新婦をはじめ親族や仲人たちが身支度を調え、友人たちもドレスを身に纏い、化粧をしたり髪の毛をセットしたりと忙しそうにしていた。そんな光景を眺めていると、顔のテカリ防止に効果があるペーングと呼ばれる粉を、友人たちに塗りたくられた。
友人たちによると、すこし前まではちょっと微妙だったそうだが、イマドキのオトコたちはペーングをしてもおかしくないという。10年前、日本人の男性たちが眉毛を抜きはじめたときと同じように、バンコクでもオトコのオシャレが確実に流行りはじめている。
タイ人の女性は、第一次大戦期に流行したような大正ロマン的なハイカラな髪型で式典に臨む。その髪型を作るために、新婦は午前5時に起きてこの結婚式に臨んだそうで、見るからに疲れ切っていた。
午後7時、トゥックチャーングの1階にある結婚披露宴の会場で参列者の受付が始まり、新郎新婦は終始引きつった笑顔で記念撮影に応じていた。僕たちはその横で、参列者たちが持参したピンク色の封筒に入っている祝儀をまとめ、大きな台帳にサインと簡単なメッセージを書いてもらう役割をしていた。新郎が中国移民の3世ということもあって、親類縁者のなかには中国語の話者も多く、自分の名前を中国語で書いている人もいた。
「中国人って名前しか書かないの!? ちょっとオカシイんじゃない?」
隣にいる友人が小声で耳打ちをしてきたが、中国独自の慣わしや、名前以外の中国語を書けない可能性を考慮して、特にメッセージを求めることはしなかった。
午後8時半、披露宴が始まり、巨大なスクリーンに新郎新婦の写真が映し出された。新郎新婦による挨拶のあとに、グルングスィーアユッタヤー銀行で課長をしている仲人による挨拶が続いた。そして、中国語曲の生演奏を聴きながら、中国式のコース料理を友人たちと突きあった。
新郎新婦はともにホーガーンカータイ大学(タイ商工会議所大学)卒業の26歳だった。典型的なバンコクの中間層で、それぞれ25,000バーツ程度の所得を得ている(バンコク在住の日本人貧困層は、自分の所得の低さを正当化するために、タイ人の大卒初任給が9,000バーツ程度であることをよく強調しているが、バンコク都内の民間企業で働いている大卒労働者の給与は、男女ともに3年も働けば2~3倍に跳ね上がり、その後も緩やかな昇給が続く)。この結婚式にはおよそ200,000バーツの費用がかかっているという(内訳は、結婚披露宴費用が半分、のこりは結婚式や結婚指輪の代金らしい)。
「ちゃんと、元がとれたのかしら?」
帰りのクルマのなかで、80,000バーツ強の月給をもらっている友人は、そのように心配をしていた。損益分岐点は、招待客200人全員が御祝儀袋に1,000バーツずつ入れて持参すれば達成される計算になるが、そのなかには子供たちもたくさん含まれていたし、大人だって2,000バーツ出す人もいれば、500バーツしか出さない人もいる。おそらく、回収できたのは、かかった費用の半分程度のだろう。
オトコにとって、結婚とは最後の日であり、再出発の日でもある。友人たちが次々と新たなスタートを切っていくなか、我が身を振り返ったときにすえ恐ろしい気分になった。娼婦との刹那的な恋愛を謳歌している一部の日本人連中と比べればかなりマシだが、それでも学部生のような恋愛をこのままずっと楽しんでいるわけにはいかない。