「そんなこと、ぜんぜん聞いていないわ。マレーシアへ行くってことは、つまり南部国境3県を通過して、スンガイゴーロック国境(ナラーティワート県)を越えるってことでしょう? 私は絶対にイヤよ。パスポートを持って来ていないし、それにあまりにもリスクが高すぎるから」
午前零時半、タイ国道41号チュンポーン・パッタルング線の始点があるチュンポーンで、「このままマレーシアの首都があるクアラルンプールまで運転して行っちゃおうか?」と思いつきで提案したところ、友人が拒否反応を全開にして言った。現在、タイでは、南部国境3県へ行くことは、自殺行為と同義であると考えられている。
南部国境3県とは、マレーシアとの国境に隣接しているパッターニー、ヤラー、ナラーティワートの3県で、この地域に住んでいる住民たちの特徴としては、①アッラーを崇拝し、②イスラーム教を信仰し、③マレー語でコミュニケーションをとっている点があげられる。冷戦時代、多民族国家であるタイの政府は、同化政策(汎タイ民族主義)を打ち出して、①国王を崇拝し、②仏教を信仰し、③タイ語でコミュニケーションをとるようすべての国民に強要していたが、それがパッターニー王国併合以来200年間続いてきた分離独立運動を激化させる一因となっている。
タックスィン・チンナワット警察中佐のタイ首相就任(2001年)以来、タイ政府はこれまでの宥和政策を転換して、汎タイ民族主義的な強硬策を前面に押し出すようになっている。タイ陸軍は2004年4月28日、イスラーム教のモスク「マスユィット・グルーセ」を占拠して立てこもった、ナイフやナタで武装したマレー系住民たちを虐殺した。これにより、深南部における分離独立運動が一層激化し、2005年5月19日には南部国境3県に非常事態を宣言した。
一連の分離独立派によるテロの死者は、ついに1,000人を超えた。この数字には、軍や警察が射殺した過激派をはじめ、当局の不手際により護送中に死亡した容疑者、テロリストたちの敵である軍警察の関係者、イスラーム文化の壊乱者として標的となっている教員などの教育関係者、そのた多数の一般市民が含まれている。テレビや新聞では、関連するニュースが連日のように伝えられており、「南部で誰かがぶっ殺される」ことは、いわば日常茶飯事となっている。
ちなみに、昨年2005年に発生した主なテロは次のとおり。
- ナラーティワート県スンガイゴーロックで40人が重軽傷を負った自動車爆弾事件(2月17日)
- ナラーティワート県スンガイパーディーで列車が脱線し警察官や鉄道職員など22人が負傷した鉄道爆破事件(3月27日)
- ソンクラー県で2人が死亡し、70人が重軽傷を負ったハートヤイ国際空港、商店街、ホテル連続爆破事件(4月3日)
- ヤラー県ヤハーで鉄塔が爆破され、路上でメモが添えられた男性の遺体が発見された事件(6月5日)
- ナラーティワート県ヂャネで1人が死亡しこの年21人目の殉職教師となった学校長襲撃事件(6月24日)
- ナラーティワート県ランゲで2人が死亡した海兵隊員拉致殺害事件(9月21日)
- 中国人2人が武装集団の襲撃を受け死亡、同日ヤラー県で教師護衛中の警官1人が射殺された事件(9月30日)
- パッターニー県で3人が死亡した寺院襲撃仏僧殺害事件(10月16日)
こうした事態に対して、タイ政府は南部国境3県に対する経済制裁を実施した。域内にあるそれぞれの村落を、レッド、イエロー、グリーンの3ゾーンに分類し、イスラーム過激派が多数潜伏している358あるレッドゾーンの村に対する地方開発費の交付を停止する検討に入った。
深南部における政情不安と治安の悪化は、完全に泥沼化の様相を呈している。タイ政府は、イスラーム過激派の資金源に打撃を与えることを口実としているが、元来、この分離独立運動の背景には南部住民の貧困に対する不満がある。近年、イスラーム世界全域では、「イスラームのイスラーム化」といった右傾化の気運が高まっており、異文化に抵抗する原理主義運動が盛んになっているなか、経済制裁なんかを仕掛けたら、いよいよ収拾がつかなくなるのは目に見えている。
ある社会人類学の学者によると、イスラームにおけるイスラーム化の背景には、『よりイスラーム的』に生きるように促す教義が聖典クルアーンにあって、近年の急速な西洋化がムスリムを過激で反動的な原理主義へ駆り立てているという。
また、南部国境3県と中央政府とのあいだには、歴史的にも根深い対立の構図がある。
15世紀中頃、タイ南部のソンクラー県からマレーシア東部のトレンガヌ州までの領域を支配していたヒンドゥー教国「ランカスカ王国」がイスラーム化した。17世紀以降は、交易で栄えたイスラーム教国「パッターニー王国」が、宗主国の仏教国「スコータイ朝 → アユッタヤー朝」に対して度重なる反乱を起こした。これが今日の分離独立運動スピリッツの起源となっている。18世紀に政権内部の闘争によってパッターニー王国が弱体化すると、ラッタナゴースィン朝のプラプッタヨートファーヂュラーローク大王(1737-1809)の侵攻を受けて滅亡。1882年、スルタン制が廃止され、タイに完全併合された。1909年、タイによるパッタニー領有がバンコク条約で国際的に承認されたことにともない、パッタニー州となった。1933年、モントン・テーサピバーン制の解体により、現在の行政区分となった。第二次世界大戦中には、当時タイの首相を務めていた陸軍元帥ピブーン・ソンクラームの政権が、愛国主義政策(ラッタニヨム)にのっとって、国内のイスラーム教徒に対して仏教信仰を強要し、それが今日に至るまで禍根となっている(戦後、この政策は一部修正されて穏健なものとなったが、それでも基本的な概念は現在でも大して変わっていない)。1945年、イギリスと同盟を結んでいた独立運動の指導者がパッタニー独立を宣言したが、この同盟はイギリスに反故にされ、パッタニーは引き続きタイに帰属することになった。その後、政府は1970年代までこの地域におけるゲリラを掃討。1980年代からは融和政策に転換して、開発予算を積極的に交付するようになった。
この問題に対する具体的な解決策はない。いろいろと自分なりのアイデアはあるが、この日記に掲載するのは適切ではないと考え、割愛する。
午後5時、スクンウィット13街路にある住まい Sukhumvit Suite を出発した。午後6時からの40分間、エーガチャイ付近の自動車整備工場に寄って、タイヤを交換(2,500バーツ)し、車体のバランスを調整(300バーツ)した。午後9時、プラーンブリーで夕食をとった。目的地のスラートターニーに到着したのは翌2日の午前2時50分で、街のはずれにあった安ホテル SR (500バーツ)に宿泊した。本日の走行距離654kmだった。
*1 タイの総人口は6,487万人。そのうちイスラーム教徒は230万人であり、全体の約3.5%を占めている。また、南部6県におけるイスラーム教徒の人口は183万人(50%)と、タイのほかの地域と比べてイスラーム教徒の比率が高い。特に深南部で高く、それぞれナラーティワート県で54万人(82%)、パッタニー県で48万人(80%)、ヤラー県で29万人(69%)の順となっている、