「あの無能たちは、タイを良い方向へ導こうとしている首相を陥れて、政権を手に入れるために国民を欺いているのよ」
午後9時半、ゴールデントライアングルのミャンマー側にあるホテル Paradise Casino に併設されているマッサージ屋で、タイ北部ランプーン県出身の中年の女性マッサージ師は、夜の報道番組「クイクイカーオ」を見ながら、テレビの画面に現れた野党勢力の面々を罵っていた。マッサージ師の言葉は、バンコク人的な政治思想からはかけ離れているが、タイの北部における人々の世論を代弁していると言える。
クイクイカーオは、政治や社会に関する問題を扱っているタイ・チャンネル3の討論番組で、タイ自由報道の象徴とされているソーラユット・スタッサナヂンダーと、ラジオ番組の元プロデューサーのガノック・ラットウォングサグンが司会進行を務めている。定時のニュースではサラッと流されてしまうような政治的・社会的な問題に光を当てることで、タイ人の政治や社会に関する意識を高めることに大きく寄与している。最近では、タイ首相のタックスィン・チンナワット警察中佐に対して批判的なスタンスを取っており、首相からも番組へ向けて皮肉とも罵声ともとれる発言がなされている。平日は午後9時半から午後10時まで、土曜と日曜は正午から午後1時までの時間帯に放送されている。
それまで政治権力によって抑圧されてきたタイの地方に住んでいる農民たちは、2001年に市民団体の「貧民連合」を立ち上げて、自らの政治的権利を声高に主張するようになった。同年、タイの首相に就任したタックスィン・チンナワット警察中佐は、タイの憲法221条にもとづいて議会でおこなわれた施政方針演説において、経済の回復と弱者救済が喫緊の課題であると表明し、つぎの9項目を当面の政策課題として掲げた。
- 農民が抱えている負債の返済を3年間猶予する
- それぞれの村落に100万バーツ規模の基金を設立して、競争力のある産業を育成する
- 市民銀行を設立して、貧困者に対する融資を強化する
- 中小企業銀行を設立して、起業、技術育成、雇用促進、所得向上、輸出などの支援をおこなう
- 資産管理機構を設立する
- 国営企業を民営化することで事業の効率化を図る
- 1回につき30バーツで医療が受けられる制度を設けて、貧困者の利便を図り、国民保険制度を充実させる
- 麻薬中毒者の更正施設を設立して、麻薬を撲滅する
- 汚職を撲滅する
特に1, 2, 3, 7, 9の5項目は、貧困者からの熱烈な支持を集めた。誰だって、借金の返済が繰り延べになれば喜ぶし、村落交付金を活用して購入したクルマをみんなで共同利用できるようになれば便利になるし、金利の低い融資が受けられれば当面の生活も楽になる。バカ高い医療費がタダ同然になれば健康的な生活が送れるようになるし、汚職が撲滅されれば官吏への上納金にも苦しめられずに済む。
パッと見ただけでは、有効需要派あるいは積極財政派と呼ばれている学者達が提唱している「金をばらまけば経済が刺激され景気も良くなる」といった理論と同じように思えるかもしれないが、長期的な視点で考えてみれば、この政策によって農民たちの負債が軽減されることはないし、村落交付金が有効に利用されるとも限らない。しかも、たった30バーツでは十分な医療が受けられず、その場しのぎの中途半端な治療に終始して、病気はいつまでたっても治らない。さらに国家の財政を疲弊させ、病院経営を危機に瀕している。ましてや、甘い審査基準で融資を実行して、貸し倒れにでもなったら、いったいどうするつもりなのか。労働者を支持基盤として成立したアルゼンチンのペロン政権(1946年)が、大衆迎合的なばらまき政策を続けた結果、どのような運命をたどったか思い出してみるべきだろう。
いずれにせよ、タックスィン政権は、ドラスティックな貧困者対策を次々と打ち出し、貧困問題が深刻なタイの東北部から北部にかけての地域で強固な支持地盤を築くことに成功している。
あえて世間一般のタイ人女性たちを忌避して、貧しく教養もない娼婦しかお付き合いをしていない一部の奇特な日本人男性に対しては、何はともあれ、「タックスィン万歳!」と言っておくことをオススメしたい。都市部における中間層の意見ばかりが尊重されがちな日本語媒体の論調を真に受けて、都市部のタイ人たちが主張しているような政治的意見をそのまま娼婦に対してぶつけてしまうと相当厄介なことになる。市民意識が乏しい娼婦たちの関心事は、為政者から自分がどのような便宜を図ってもらえるのか、そのただ一点だけに集約されている。有り体に言ってしまえば、娼婦たちには、被支配階級としての奴隷根性が骨の髄まで染みついており、教養ある市民社会の一員としての正常な判断力がない。
一方で、タイにおける都市部の中間層は、比較的裕福で教育のレベルも高い。市民社会の一員としての自覚もあり、どんな善政であっても社会の正義に反してはならないと考えているため、利権政治業者に対して不満を募らせやすい傾向がある。実際に、彼らはタックスィン政権による弱者救済のための政策を「単なるばらまき政治」と考えているし、判断能力の乏しい地方の大衆たちが踊らせているだけの「衆愚政治」と見なしている。そのため、タイ首相のタックスィン・チンナワット警察中佐は、常に都市部における比較的教養の高い層や知識人からの批判の矢面に立たされている。
タックスィン・チンナワット警察中佐は、2001年にタイの首相に就任して以来、常にスキャンダルの中心人物であり続けた。2003年の麻薬撲滅戦争政策では、軍や警察が容疑者として見なしていた民間人2,500人を裁判にかけることなく処刑したことで、国際社会からの猛烈な非難を浴びた。さらに、逮捕された麻薬ブローカーの大物たちに対して次々と無罪判決が下るようになると、末端のブローカーを虐殺しただけで、麻薬の撲滅にはほとんど効果がなかったとする見方が支配的になった。また、首相が事実上所有しているスィンコーポレーションによる不正献金疑惑や所有権移転税の課税逃れに関する疑惑では、裁判所に対して証拠不十分を理由にシロの判決を下させている。政権に対して批判的な Nation Multimedia Group の社長の住居を家宅捜索するなどの圧力を加えている一方で、タイ唯一の非政府系のテレビ局だった ITV を買収してスィンコーポレーションの傘下に置くなど、報道の統制にも乗り出している。2004年4月には、次女のペートーングターン・チンナワットによる不正入学疑惑が発覚し、数日後には南部国境3県で農機具を持って蜂起した100人以上の農民からなる「武装勢力」を虐殺した。2005年7月には、タイ南部国境3県において、逮捕令状なしの身柄拘束や報道管制などを認める「非常事態宣言」を発令し、この地域に住んでいるタイ国の民の基本的人権は大きく制限された。バンコクに事務所を置いている日系の報道機関は、タックスィンに不利な記事を書くたびに首相府からの抗議の電話がかかってくるため、ほとほと困り果てているという。
そして今回、チンナワット家の一族が事実上支配している通信会社のシンコーポレーションの、株売却に係わるインサイダー取引が噂されている。首相は、この取引のために、タイの通信関連法で規定されている外資規制を従来の49%から25%へ引き下げ、シンガポール資本の企業に売却したことで733億バーツの利得を得た。一族が英領バージン諸島に設立した投資会社を迂回させることで、シンコーポレーション株の名義人を首相本人から長男と長女に移したときに所得税を免れ(タイの税法では株取引にともなうキャピタルゲインに対して所得税は課税されない)、結局この取引の課税額は付加価値税のわずか2500万バーツにすぎなかったという。
これを受けて、日刊紙「プーヂャッガーン」の社主、ソンティ・リムトーングンが、タックスィンの専横に反対して、内閣総辞職を要求する「救国運動」を立ち上げた。2月4日には民主主義市民連合(スリヤサイ・ガタシンラー事務局長)が旧国会議事堂の前で5万人規模の集会を開くなど、都内における「反タクスィン」の機運は急速に拡大している。その後も大規模な反政府集会が相次ぎ、2月20日には1992年当時の市民運動指導者でバンコクの都知事も務めたヂャムローング・スィームアング陸軍少将がこの活動に加わった。2月24日、首相は職権で議会下院を解散し、総選挙の実施日を4月2日と定めた。これに対し、主要な野党3党は総選挙のボイコットを決定している。
今晩のニュースでは、その様子について報じられていた。野党各党は、「選挙へ行って『該当者なし』の欄に印を付ける」よう支持者に呼びかけている。これは、今回の総選挙で候補者を唯一擁立している与党の「タイ愛国党」が獲得する得票率を異常に低い水準にすることで、選挙の有効性そのものの無効を訴え、タイ憲法7条にある「憲法のいかなる規定によっても事態を解決できないときには、立憲君主政体の行政慣行に基づいて決定する」 ในเมื่อไม่มีบทบัญญัติแห่งรัฐธรรมนูญนี้บังคับแก่กรณีใดให้วินิจฉัยกรณีนั้นไปตามประเพณีการปกครองในระบอบประชาธิปไตยอันมีพระมหากษัตริย์ทรงเป็นประมุข という規定のもとで、国王主導による反タックスィン的な暫定内閣を成立させようと目論んでいるといわれている。
私立アサンプション大学附属の調査機関「エーベックポール」が2月17日にタイ国内22県6,461人の有権者を対象におこなった世論調査によると、タクスィン内閣の支持率は直近の6ヶ月間で58.2パーセントから34.5パーセントまで約24ポイントも低下している。これを受けて、大衆紙のコムチャットルックは、タクスィンの支持率がチュワン政権と競っていた頃と同じ水準まで落ち込んだと報じている。なお、タクスィン政権を支持しない理由として挙げられていたのは、汚職撲滅に対する取り組みが不十分が61.8%、30バーツ診療制度に対する取り組みが不十分が35.1%の順だった。
ここで地域別の内閣支持率を示そうと考えていたが、手元に十分な資料がない。先日、サヤームスクウェアで立ち読みをした日刊紙によると、南部15%、中部35%、北部82%というカンジだったと記憶している。
マッサージ室へ入ると、マッサージ師から「好きなチャンネルを選んで良い」と言われた。そこで、地方におけるタイ人の政治感情を調査するために、あえてタックスィン首相に対して批判的な報道番組を選んでみた。
結果は、冒頭にあるとおりだった。番組の解説が難しすぎたためか、マッサージ師たちは次第に口をつぐむようになった。「耳に優しいスローガン」ばかりに耳を傾けて、肝心な部分を理解しようとしない人々を騙すことは、難しくない。
午後1時、タイ最北端のメーサーイ国境前にあるホテル「ワングトーング」をチェックアウトして、東へ約30キロ行ったところにあるチアングセーン郡の「ゴールデントライアングル」までクルマを走らせた。
ところが、チアングセーン郡から船に乗り、メーコーング川の支流であるルアック側を渡って、ミャンマー側にあるカジノ「ゴールデントライアングル・パラダイスリゾート」へ行こうとしたところ、ビザの滞在期限を超過しており、不法滞在同然の状態となっていることが発覚した。正月にチョングメック国境から陸路でタイへ入国したときに、入国係官がパスポートにある再入国許可証を見落として、一般の旅行者と同じスタンプを押してしまったようだ。チアングセーン入国管理局のゴールデントライアングル駐在所にはビザの発給権限がなかったため、係官がメーサーイにある入国管理局に電話して話をつけてくれた。
その後、パスポートのコピーに日付印をもらって「簡易出国」した。これは、タイ人が(マレーシアを除く)近隣国へ出国するときに発行される国境通過許可証のようなものだ。入局管理局の駐在所の前から、安っぽい渡し舟に乗って対岸のミャンマー領へ渡った。
ミャンマー側の船着場で制服の係員に入国許可証の発給手数料(1泊2日で10ドルまたは1,500バーツ)を支払い、スパンブリー県選出のタイの下院議員の資本によって運営されている Paradise Casino (1泊2,400バーツ)にチェックインした。賭場で10,000バーツ以上プレイすると、支払った宿泊費から900バーツの返金を受けることができる。友人とブラックジャックをして、それぞれ5,000バーツずつ賭けた。
ちなみに、ゴールデントライアングルは、日本語では「黄金の三角地帯」、タイ語ではサームリアムトーングカム สามเหลี่ยมทองคำ といい、タイ・ミャンマー・ラオスの国境が接するこの一帯のことを指している。世界最大の麻薬と覚醒剤の密造地帯として知られており、タイ政府による2004年の推定によると、ここで生産されている麻薬の原料は年間2,500から3,000トンにのぼるという。現在ではタイ側における麻薬生産はほぼ一掃され、「麻薬博物館」が建てられるなど、観光地化が進んでいる。なお、当地のホテルで麻薬や娼婦を入手するのはまずムリ。クリーンな環境でカジノが楽しめるので、個人的には心から歓迎しているが、麻薬と買春に夢やロマンを求めている一部の日本人観光客たちにはあまりお勧めできない。
それにしても、タイ人のバカラ賭博好きには本当にまいった。賭場にはバカラ台が12台も設置されているのに、ブラックジャック台やルーレット台は隅っこのほうへ追いやられ、それぞれ1台ずつしかなかった。