「電話とインターネットの解約は今週中に済ませておくわ。 True で働いている高校時代の友達が『パスポートのコピーと委任状があれば解約できる』と言っていたから、ホテルへ戻ったらすぐに委任状を書くようにしてね。面倒くさいとか言って先延ばしにしていると、ホントウに忘れて、数ヶ月後には料金滞納者のブラックリストに入れられてしまうわよ」
午後9時15分、リヴァーシティー・スィープラヤー船着場の前は、オリエンタルやペニンシュラといった高級ホテルから放たれている照明がヂャーオプラヤー川の水面に映り、そのコントラストが幻想的な雰囲気を演出していた。正面には今月開業したばかりのホテル Millennium Hilton が見える。
その Millennium Hilton でバンコク留学の最後の夜を過ごすことにした。タイの近代史における主要な舞台になったヂャーオプラヤー川の水辺に建っているホテルからは、ワットプラゲーオ(エメラルド寺院)などの歴史的建造物や、トンブリー朝開闢以来239年の歴史を刻んできたバンコク旧市街の景色を一望することができる。そして、向かいにある船着場から友人と遊覧船に乗って、ヂャーオプラヤー川を北上しながら、きょうまでの約4年半におよんだバンコク留学生活について振り返ってみたい。
いまから4年5ヶ月前の2001年10月、当時勤務していた金融機関の情報システム部門が分社化されるという噂を聞いて、このまま社内 SE を続けていても IT 系の民間企業で働いている人と競争していけるだけのスキルは身に付かないと判断し、もし転職市場の荒波のなかへ放り出されたら間違いなく淘汰されてしまうといった危機感から退職した。
2001年11月7日深夜、日本人の話者が少ないタイ語を糧にして今後の転職市場で生き残ろうと考え、バンコク・ドーンムアング国際空港に旅行カバンひとつで降り立った。インターネットの日タイ交流掲示板で知り合ったスィーナカリンウィロート大学の学生たちに空港まで迎えに来てもらい、無理を言ってその後のアパート探しまで手伝ってもらった。留学のパフォーマンスを最大まで高めるために、約1年半のあいだタンマサート大学の学生と同棲した。今日の自分があるのはすべて、この頃に良質な友人たちに恵まれたおかげだと、いまでも感謝している。
2002年1月、ヂュラーロンゴーン大学文学部が開講しているインテンシブタイプログラム(集中タイ語講座)でタイ語の学習を始めた。この講座は、外国人向けのタイ語教育では最難関として知られており、1日あたりの新出単語が100語もあった。5週間ごとにおこなわれる進級試験では得点が6割に満たないと放校処分にされてしまうため、わざわざ会社を辞めてはるばるタイまでやって来たのに、そこで落ちこぼれて放校されたとあってはあまりにも無様すぎると考えて、我武者羅になって勉強をした。次第にスパルタ教育の重圧に慣れいき、新聞記事も辞書なしですらすらと読めるようになっていた。のべ14人いた受講生のうち最終レベルまで到達できたのはわずかふたりだけだったが、2003年1月に無事修了した。
2003年3月、ヂュラーロンゴーン大学大学院のタイ・東南アジア学研究室へ行って修士課程の願書を提出したところ、英語力の不足が原因で受理してもらえなかった。タイ語が話せる第二新卒として日本で再就職することや、現地採用としてタイで働くことも検討してみたが、どんなに困難であっても初志を貫徹させることが重要だと考えて、アメリカ・ロサンゼルスへ行って英語を学ぶことにした。
2003年5月、ロサンゼルス郡アルハンブラにある英語学校 Language Systems へ通いはじめた。タイ語を学んでいた頃に比べれば平凡で退屈な毎日ではあったが、それでもタイ人の共同住宅に転がり込んでタイ語漬けの日常生活が送れたことはそれなりに収穫だった。
2003年10月、ヂュラーロンゴーン大学大学院の東南アジア学研究科の修士課程へ進学した。2004年6月、このブログの「タイ沈没の悲劇を目の当たりにする」という記事で、バンコクに住んでいる一部の気持ち悪い日本人について言及したところ、2ちゃんねるの麻薬や買春に関する掲示板「危ない海外」において徹底的な誹謗中傷に晒されることになった(まとめサイト参照)。なかには、「ケイイチは大学の職員を買収して入学した」、「正規の学生を装っているが実はただの聴講生にすぎないから学位も取得できない」といった事実無根の誹謗中傷をはじめ、「ケイイチに好意的ではない大使館員や入国係官と会ってブラックリストに加えさせた」、「殺してやる」といった脅迫まであったが、その最先鋒となっていた中傷目的のウェブサイトが「ケイイチが妾の息子であると突き止め、その証拠として戸籍謄本を入手した」と主張するようになったことから、彼らが言っている「裏情報」や「動かぬ証拠」の数々がすべてハッタリであると確信して密かに胸をなで下ろした。
それを契機に、ずっと疑問に思ってきた「日本人によって語られてきたタイ人像」の真偽について、調査をはじめるようになった。それまでは、娼婦や夜の歓楽街を基準にしてタイを語ってきたような自称タイ通たちからの反発を受けることを懸念して遠慮していたが、売買春に関連するウェブサイトの管理人や掲示板の投稿者たちから好き勝手なことを言われるようになり、それ以上のダメージを受けることを考慮に入れる必要がなくなったため、娼婦との体験だけを元に描かれてきた、これまで数多くの日本人たちによって語られてきたタイの全体像は正しくない、といった内容の記事を気兼ねなく自由に書けるようになった。最初のうちは世間一般のタイ人に限定していた調査対象を、次第に日本人向けのカラオケスナックやタイ人向けの高級キャバレーで働いている娼婦達まで拡げていき、そのなかで興味深い発見の数々に出くわした(シリーズ「微笑みの国タイランドと厳しい現実」にまとめてあります)。おかげで、バンコクの日本人社会については、ちょっとした専門家になれた。
ヂュラーロンゴーン大学は、世界の大学ランキングで日本の京都大学と一橋大学のちょうど中間あたりに位置しているタイの最高学府であるため、クラスメイトたちはみんなとても優秀で、僕は単なる凡庸な学生のひとりにすぎなかった。それでも、タイをはじめ世界各国の一流大学を卒業して、返済義務のない奨学金をアメリカ系の財団法人から受け取って在学している優秀なクラスメイトたちが、継続して履修していくために必要な規定の平均評定を下回って次々と除籍処分を受けていくなか、なんとか修了まで漕ぎ着けることができただけでも、十分に満足すべきではないかと考えている。
2005年11月中旬に最後のタームペーパー(学期末小論文)を提出してから修了認定試験を受ける2月までの3ヶ月間は、完全に自由の身となった。最後の1学期(2548年度後期, 2005年11月~2006年3月)は履修登録をしなくて済んだため学費が93パーセントも減免され、それによって余った予算と時間を活用してタイの地方都市を旅行して周り、視力矯正手術のレーシックまで受けた。自分の好奇心が赴くままに行動してみるというのも、いろいろと学ぶべきものが多くてとても有意義だった。
そして今日、バンコク留学の最終日前夜を迎えた。大家の厚意で退去期限を1日延長してもらっていたコンドミニアムを昼過ぎに出て、友人のクルマに旅行カバンを5つも詰め込んで、ホテル Millennium Hilton にチェックインした(一泊3,000バーツ)。遊覧船でヂャーオプラヤー川を北上しながら友人と夕食を取り、ホテルの最上階にあるラウンジでバンコクの夜景を眺めながら軽く酒を飲んだ。
ふとしたところからこのブログにたどり着いて読まさせてもらいました。
今の職場にヂュラーロンゴーン大学出身のタイ人の同僚がいて、タイではすごい大学なんだなと知りました。まさか世界大学ランキングが京大と一橋の中間だったとは驚きました。
同僚のことを見直しました。
また時間があるときにブログゆっくり読まさせていただきます。
はじめてまして。そのタイ人同僚の方の詳細が分からないので断言するのは難しいですが、もし日本で働いていて、日本語が不自由なく話せるようでしたら、タイに帰国したときに仕事が選び放題な状態になっていると思いますので、もし仮に仕事の出来が不十分であっても優しくしてあげてくださいね。個人的には、チュラ卒のタイ人は、日本の会社で働くのには向いていない方が多い印象があるので…。
ふとしたところからこのブログにたどり着いて読まさせてもらいました。
今の職場にヂュラーロンゴーン大学出身のタイ人の同僚がいて、タイではすごい大学なんだなと知りました。まさか世界大学ランキングが京大と一橋の中間だったとは驚きました。
同僚のことを見直しました。
また時間があるときにブログゆっくり読まさせていただきます。
はじめてまして。そのタイ人同僚の方の詳細が分からないので断言するのは難しいですが、もし日本で働いていて、日本語が不自由なく話せるようでしたら、タイに帰国したときに仕事が選び放題な状態になっていると思いますので、もし仮に仕事の出来が不十分であっても優しくしてあげてくださいね。個人的には、チュラ卒のタイ人は、日本の会社で働くのには向いていない方が多い印象があるので…。
チュラの学生はタイの中では一風変わってた感じでした。
2人程しか知りませんが。。。
緩い語学学校の中で恐らく距離をとってたのだと思います。
日本人で高卒でも付き合ってる人もいましたよ。
そのチュラの学生は付き合いだしてから自己中になったらしく、日本人は苦労してましたが。。。。
ブログ主の階級社会というのはタイ人の中では当てはまると思いますが、外国人はその外という印象があります。
飛行機の中で出会ったおっちゃんも、ブログ主の言葉を借りれば華僑の上流階級と結婚したらしく、タイにいるときは夫人の親族所有ホテル住まいなのだとか。
チュラ大の学生は良くも悪くもクセがありますから難しいですよね。チュラにあらずんば人にあらず的なところがありますので、自分もチュラの学生になるまでは「なにコイツ?」的な場面によく出くわしました。尋常ではない勢いで見下して来ますから。言い替えると、チュラの女性と付き合うのも、チュラ卒の従業員の上司になるのも、チュラ卒の人にしかできないというわけなんですが、まあそういう社会なので仕方ないと思っています。個人的には、タイの階級社会において外国人はその対象外として扱われるという考えには賛成できませんが、例外的に、その日本人にそれなりの経済力がある場合に限り、教育面でのバックグラウンドが劣っていても不自由なく立ち回れるのではないかと思います。年収250万バーツ以上、月々の家賃6万バーツ以上が目安かなー、と思っています。
チュラの学生はタイの中では一風変わってた感じでした。
2人程しか知りませんが。。。
緩い語学学校の中で恐らく距離をとってたのだと思います。
日本人で高卒でも付き合ってる人もいましたよ。
そのチュラの学生は付き合いだしてから自己中になったらしく、日本人は苦労してましたが。。。。
ブログ主の階級社会というのはタイ人の中では当てはまると思いますが、外国人はその外という印象があります。
飛行機の中で出会ったおっちゃんも、ブログ主の言葉を借りれば華僑の上流階級と結婚したらしく、タイにいるときは夫人の親族所有ホテル住まいなのだとか。
チュラ大の学生は良くも悪くもクセがありますから難しいですよね。チュラにあらずんば人にあらず的なところがありますので、自分もチュラの学生になるまでは「なにコイツ?」的な場面によく出くわしました。尋常ではない勢いで見下して来ますから。言い替えると、チュラの女性と付き合うのも、チュラ卒の従業員の上司になるのも、チュラ卒の人にしかできないというわけなんですが、まあそういう社会なので仕方ないと思っています。個人的には、タイの階級社会において外国人はその対象外として扱われるという考えには賛成できませんが、例外的に、その日本人にそれなりの経済力がある場合に限り、教育面でのバックグラウンドが劣っていても不自由なく立ち回れるのではないかと思います。年収250万バーツ以上、月々の家賃6万バーツ以上が目安かなー、と思っています。
でも、私はタイ人との国際結婚は金持ちでないと出来ないと思ってます。
元彼女は1ヶ月単位で帰省したりしてますし
可愛いとこありますけど、根がリッチマインドの人が多いので大変です。
個人的には結婚相手が元売春婦でなければ、タイ人と結婚しても問題は少ないと思っています。両親がとても裕福で、かつ、階級社会的な自己顕示欲が少ない相手であれば、なお望ましいと思います。ただ、日本は何かと常識的な社会なので、もしタイ人と結婚して日本で生活することになったら、配偶者が気の毒なことになるんじゃないかと思って、自分はタイ人との結婚を選択できませんでした。
でも、私はタイ人との国際結婚は金持ちでないと出来ないと思ってます。
元彼女は1ヶ月単位で帰省したりしてますし
可愛いとこありますけど、根がリッチマインドの人が多いので大変です。
個人的には結婚相手が元売春婦でなければ、タイ人と結婚しても問題は少ないと思っています。両親がとても裕福で、かつ、階級社会的な自己顕示欲が少ない相手であれば、なお望ましいと思います。ただ、日本は何かと常識的な社会なので、もしタイ人と結婚して日本で生活することになったら、配偶者が気の毒なことになるんじゃないかと思って、自分はタイ人との結婚を選択できませんでした。