「よかったじゃない。映画も見られたことだし、これでもう満足でしょう?」
午後9時、ラッチャヨーティン交差点にある映画館 Major Cineplex の前で、友人がため息をついてから言った。時期的に、ほかに一般公開されている映画がなかったとはいえ、この映画はちょっとヒドすぎた。友人の投げやりな言葉にもうなずける。
■ あらすじ (ネタバレなし)
ティーポー(オーフ=スパナット・チャルームチャイヂャルーンギット演)、ローチャー(ヌイ・チューンユィム=チューギアット・イアムスック演)、マーヂュー(ヂャッガブム・チューンユィム=ソムチャート・ソングロット演)の3馬鹿トリオは、国境付近にある霧に囲まれた山間の集落で、人々から愛されながら暮らしていた。
3馬鹿トリオの運命は、山へやってきた女神に振り回された。ティーポーは、バンコクからやってきたエーンニー(アレクサンダー・スティッバート演)を見て「お花はま、うすくしい」と言って感動し、村人たちは、そんなティーポーを見て「めっちゃお似合い」とウワサをした。すべてはティーポーの片想いだったが、人々によるそんな勝手な思い込みが、さまざまな事件を引き起こした。
ほどなくして、お花様=エーンニーがバンコクへ戻り、ティーポーは悲嘆に暮れる日々を過ごすようになった。そして何を勘違いしたのか、ティーポーたち3馬鹿トリオも「オラが心、お花様プロジェクト」と称して山を下りることを決意して、お花様=エーンニーを追ってバンコクへ向かった。
バンコクは、3馬鹿トリオにとって、スケールがあまりにも大きすぎた。粗野で大柄なオカマや、変な料理ばかりを注文する強欲な男たちなど、変人揃いの町内の面々を巻き込んで、とんでもないドタバタ劇を繰り返す。挙げ句の果てには、ロットファイファー=高所配電線作業車(高架電車と同じタイ語名称の車両)を乗っ取って町中でカーチェイスをはじめてしまうといったありさまだった。
ティーポーは、バンコクでお花様=エーンニーと感動の再会を果たすことになるが、すでに婚約者がいることを知らされて、いきなり失恋した。その裏で、婚約相手のパキン(トラガーン・パンロゥムルートルヂー演)が、お花様=エーンニーを亡き者にしようと、さまざまな陰謀を巡らせていた・・・・・・
■ 感想
この作品は、著名なお笑い芸人たちを多数起用することで観客のウケを狙っているようだが、これまでに使い古されてきた古典的なギャグをテンコ盛りにしているだけで、まったく新鮮味が欠けていた。唯一、目を見張ったのは、山間の村落で中世のような生活を送ってきた3馬鹿トリオが、近代都市のバンコクに出てきてテンパりまくるというタイムスリップ的な設定ぐらいだった。
その後も、コメディー映画のわりにテンポが悪く、観客をイライラとさせるような展開が続く。特に残念だったのは、ペット・チューンユィムの演技が浮きまくっていたことと、たくさん登場する優秀なお笑い芸人たちがみんな単なる笑い袋に成り下がっていたことだ。シモネタがあまりにも露骨すぎて、作中に登場するオカマの街娼はまだ許せるにしても、バスで女性の乗客たちが強盗に服を剥ぎ取られて強姦の目的で連れ去られていくシーンで、逆に老女が自発的に服を脱ごうとしたシーンでは、笑いどころか吐き気すら催した。
笑いのツボを完全にハズしているのみならず、タイで年々深刻になってきている、人口比の認知件数で日本の約3倍もある強姦事犯すら笑いのネタに使ってしまう、制作者サイドの社会性やセンスのなさには心底あきれかえった。社会を痛烈に風刺するのもコメディー映画の役割ではあるが、もしこのチームのクルーたちに次回作を制作する機会が恵ってきたら、今度は、映画が持っている社会的な影響力と、それに付随する責任についてしっかりと自覚したうえで、観客、特に犯罪被害者たちの気分を害さないような映画作りを心がけてもらいたい。
■ え?
「タイの政府は、バンコク人ではない人々によって樹立され、バンコク人によって打倒される」
これは、タンマサート大学の政治学部で学部長を務めていたことがある、アネーク・ラオタンマタット准教授が提唱している「タイにおける民主主義物語の解離性理論」で、その根拠をバンコク人と非バンコク人のあいだにある経済的・社会的な要請の違いに求めている。今回は政治的な話を取り上げるつもりはないので社会的な部分だけをピックアップして簡単に要約するだけに留めておくが、それによると、両者が描いている民主主義には大きな隔たりがあって、国家の指導者を選択するときに、バンコク人たちが政治家の主義と思想と能力を重視するのに対して、非バンコク人たちは自己の利益を第一に考える傾向があるという。
バンコク人と非バンコク人の解離性は、単に政治的な傾向だけではなく、第三者から「与えられるもの」全般に対する受け止め方の違いについても同じことが言える。今日の主題であるタイ映画「ゴーンバーイ映画版」をひとつとってみても、けっしてその例外ではない。僕はバンコク人的な観点から今回のレビュー記事を書いてみたが、非バンコク人的な視点で見てみれば、「いろんなギャグが満載されていて気晴らしに最適な映画」と書くことだってできる。
「タイ」というものを説明することはとても難しい。共通している部分がまったくないわけではないが、バンコク人と非バンコク人のあいだには、むしろ共通していないところのほうが多い。政治的な要請から、娯楽や恋愛の趣向にいたるまで、何をとってもまったくもって違っている。タイ映画「ゴーンバーイ映画版」も、バンコク人にはまったくウケていないが、非バンコク人たちにはバカウケする内容となっている。そんなチグハグな要素をごちゃ混ぜにして、どうして「タイ」を説明することができようか。
近年のタイブームにともない、いろいろな日本人が「タイとは・・・・・・」と言って様々な説明をするようになっているが、それはどちらのタイのことを言ってるのだろうか。非バンコク人向けのポップミュージックを「タイポップス」、非バンコク人向けのナイトクラブを「タイのクラブシーン」、非バンコク人との恋愛を「タイ人との恋愛」と紹介している日本人があまりにも多いことに、本当にびっくりしている。バンコクをメインに活動をしている日本人たちが、どうして次から次へと非バンコク人化してしまうのだろうか? それに、非バンコク人化することを「タイ化」と言って表現されていることについても、なんだか少しオカシイような気がする。
タイに関わっている特定の日本人に対する評価について論評するように、第三者から求められることがしばしばあるが、僕の回答はたいてい決まっている。
―― それは、その人が田舎系だからなんです。表面上ではそれっぽく取り繕っていますが、その人が言ってることが「タイ系」だなんて、絶対に思わないでくださいよ。これは日本人についても言えることなんですが、タイでは趣向や主張などからすぐにお里が知れてしまうんです。で、その人が、どのようなタイ人たちと連んでいるか、あなたは知っていますか? (その答えが、非バンコク人程度の話で済めば、まだまだ全然良い方だ)
昼、友人の得意先回りと集金に同行した(といっても、僕はクルマのなかで待機していた)。午後5時半から、ラーングナーム通りにある複合施設 Century The Movie Plaza へ行って友人のバースデーパーティーに参加したあと、ラッチャヨーティン交差点にある Major Cineplex でタイ映画の「ゴーンバーイ映画版」を見た。ラートプラーオ通りにあるパブ「グロムグリアオ」の前で友人の車から降りて、タクシーでバンコク・スワンナプーム空港へ向かった。午後11時55分、全日空916便バンコク発成田行に搭乗した。