「階級社会? はぁ~~? 馬鹿言ってんじゃないよ。そんなこと、どうだっていいんだ。そもそも関係ないじゃないか」
おととい、スクンウィット16街路にある日本人経営のレトロなバー Astro へ行って友人と酒を飲んでいたところ、初対面の男性から「タイ人とは何か」という議論を持ちかけられた。そこで、タイの社会を語るうえで絶対に外すことができない「階級社会」について説明をはじめたところ、「どうだっていい」のひとことで一蹴されてしまった。
すでに学術的な定説となっている事象について否定する行為は「異常」以外の何物でもないが、なにを隠そう、これがバンコクに定住している典型的な日本人中年男性の姿なのだ。彼らについて詳しく調査してみると、タイの階級社会において最低ランクとされている元娼婦と結婚をしていたり、もしくは、日本人でありながら平均的なタイ人を圧倒することができない程度の社会的なステータスしか持っていなかったりと、いま本人が立たされているさまざまな苦境が浮かび上がってくる。社会学の基本すら否定しておかないと、自己を正当化できないほど不遇な状況に陥っていると考えれば、少しは同情してあげたくもなるが、自分を慰めて自己を正当化するために構築したようなナゾの素人理論に付き合わされたのではかなわないし、ダメな日本人に好き勝手なことを言われているタイ人のほうが気の毒になってくる。
「タイ人とは何か」というテーマについて話したがる日本人にかぎって、タイという階級社会において「日本人としての階級」を維持できなくなっているケースが多い。だから、日本人としての最後のプライドを守るために、「日本国はタイ国より優れているのだから、日本人である自分もタイ人より優れているとみなされて当然である」といった論法を好んで使っている。しかし、日常の生活において、タイ人と心を通わせることができる水準のコミュニケーションをとれないような人間が、どうして自分はタイ人より優れていると断言できるのだろうか? そのような日本人と出会うたびに、「あなたは確かに日本国の国民なのかもしれませんが、あなた自身が日本国であるわけではないのです」と言ってやりたくなる。どれほど国家が優れていても、その国民の全員が優れているとは限らない。ってゆうか、自分を慰めて自己を正当化するために屁理屈を捏ねている時点ですでに十分に劣っている。
そんなバンコクに住んでいる典型的な現実退却派の日本人たちのようにならないために、この日記の読者には、タイの社会の根幹をなしている「階級社会」をタイ人の庶民の視点から見つめ直すことができる映画をひとつオススメしておきたい。コングデート・ヂャートランラッサミー監督の新作「チュム」(サハモンコンフィルム配給)が、今月の12日からタイ全国の映画館で上映されている。音声はタイ語だが、平易な英語の字幕もあるため、タイ語を話さない人でも、映画を通じてコングデートが人々に伝えようとしているメッセージを理解できるはずだ。
映画関係のレビュー記事を書いているタイ人ブロガーの Chubby Chocobo は、この映画を กระจกสะท้อนสังคมเมือง ตลกสะท้อนสังคมไทย (都市の社会を映す鏡、タイの社会を映す笑い)と評している。この作品に限らず、コングテートが監督しているお笑い映画の裏には、痛烈な社会批判や問題提起が必ず隠されている。
バット=ソンバット・ディープローム(ペットターイ・ウォンカムラオ演)は、廃墟のようなオンボロトゥックテオの一室で暮らしている無口で真面目な中年のタクシー運転手だった。1940年から1970年のあいだに流行していたようなレトロな歌謡曲をこよなく愛し、タイ人からも忘れ去られようとしているAMラジオをいまだに聞きながら運転し、いつもひとりで幸せに酔いしれている。仲間の運転手たちからは「FMラジオも聞かず携帯も持っていない流行遅れの男」とバカにされているが、それでもバットは自分のスタイルを変えようとはしなかった。
ある晩、ラッチャダーピセーク通りにある閉店間際のソープランドの前でいつものように客待ちをしていたところ、仕事を終えて店から出てきた4人組のソープ嬢がバットのタクシーに乗り込んできた。いきなりダンスミュージックをかけるように言われて、バットは気分が悪くなった。狭い車内ではしゃぎまくっている娼婦たちの様子をバックミラー越しに観察していると、そのうちのひとりが扉の窓ガラスにもたれ掛かって静かに座っているのに気づいた。
翌日、ラッチャダーピセーク通りにある閉店間際のソープランドの前でいつものように客待ちをしていたところ、昨晩の物静だったソープ嬢のヌワン(ワラヌット・ウォングサワン演)がひとりでバットのタクシーに乗ってきた。レトロな歌謡曲を流したままにしていると、ヌワンが「案外、古くさい音楽も風情があっていいじゃないの」とつぶやくのを聞いて、バットは言葉には出さなかったが心の底からうれしさがこみ上げてきた。バットは、携帯電話の会話から、ヌワンが実家にいる妹を学校にやるためにバンコクまで出てきて、この仕事を最近始めたばかりだと知った。アパートに到着すると、ヌワンは屈託のない笑顔で、これからも毎晩迎えに来て欲しいとバットに告げた。
数日後、バットはいつものようにヌワンを乗せて走っていたところ、ヌワンに夜食に誘われた……という場面から、ふたりのラブストーリーが始まる。しかし、さまざまな「社会問題」という障害に幾度となく阻まれ、なかなか上手いように事が運ばない。
この作品は、序盤で現在のタイを象徴している風景の数々が紹介され、中盤あたりからコングデートお得意の「ドタバタお笑い劇」が始まり、かなり強引なかたちでハッピーエンドを迎えて幕が下りる、といった構成になっている。タイ社会の実態として、タクシー運転手や娼婦などの下流社会が抱えている貧困問題、大衆食堂、ソープランドのネオン、赤いひな壇とソープ嬢の装備品、ソープランド入店から帰宅までの流れ、若者の凶行とタクシー運転手のリスク、売春問題、麻薬問題、ネズミ講問題、上流階級の圧倒的優位、待ち時間表示灯付信号機、不倫問題と子供に対する無関心、同性愛などさまざまな事象が取り上げられている。物語の要所要所にセピア色の記録映画風のシーンが登場して、タイにおける社会問題の根源となっている、封建時代から延々と受け継がれてきた社会的な不平等について批判し、その理不尽さを訴える内容となっている。
もしかしたら、タイの社会問題について人々に考えさせるだけでなく、この時代のタイを後世の人々に伝えるという別の目的があるのかもしれない。
夕方、高架電車エーガマイ駅前にある Major Cineplex へ行って友人と夕食をとり、映画「チュム」を鑑賞した。その後、スィリギット・コンベンションセンターで催されていた旅行関連のイベント会場に参加して連休の旅行計画を立てている別の友人と会い、さらに日本人の別の友人と世間話をするために深夜のドライブに出かけた。
“น่ารักพี่ สองร้อย”
「お兄さん、可愛いねえ。200バーツだよぉ!」
サナームルワング(王宮前広場)の前で渋滞にはまっていたところ、色白の部屋着姿をした未成年の女の子がクルマのなかを覗き込んできて、バカ安い値段で売春話を持ちかけてきた。さらにクルマを進めると、別の女性が運転席に向かって「お出かけしましょう! 300バーツ」と声を張り上げていた。
この付近の街娼たちは、ここから400メートルほど離れたカーオサーン通りの界隈にあるディスコやパブが閉店する午前1時あたりから増えはじめる。周辺の道路はそれを目当てにやってくる男たちのクルマで渋滞が発生していた。それにしても、たがだか200バーツでは物価が安いバンコクでもたいしたことはできないだろう。彼女たちが何のために売春をしているのか不思議でならない。いずれにせよ、買春行為は僕たちのポリシーに反するため、街娼たちを相手にすることなく華麗にスルーした(日本人の仲間たちのあいだには娼婦とセックスをしたら童貞に戻ったとみなされるルールがある)。
サナームルワングを周回していたところ、誤って王宮とワットポーのあいだ(マハーラート通りとタイワング通りの交差点付近)へ迷い込んでしまった。付近には男娼が至る所に立っていた。あまりの恐ろしさに、窓を開けて値段を聞くことはできなかったが、もし同性愛者に観光名所を尋ねられたら、スィーロム2街路をはじめスィーロム6街路やスラウォング通り沿いにある「ドゥワンタウィープラザ」に代わるものとして紹介してみようと思う。
こんにちは ケイイチさん、目黒です。
興味深く読ましてもらいました。
サナームルアング周辺のピーマカームは、以前から有名ですが、未成年それもプロではなく?200-300B?には驚きと、疑惑を感じます。
昨日、ちょうど今週1週間ほど帰国する友人の留学生とこの手の話をしていたのですが、なにがあるのか分からないので、ちかずきたくないと言っていました。
単にこずかい稼ぎ(それにしても安すぎる)か遊び相手探しだけなのだろうか・・・
こんにちは ケイイチさん、目黒です。
興味深く読ましてもらいました。
サナームルアング周辺のピーマカームは、以前から有名ですが、未成年それもプロではなく?200-300B?には驚きと、疑惑を感じます。
昨日、ちょうど今週1週間ほど帰国する友人の留学生とこの手の話をしていたのですが、なにがあるのか分からないので、ちかずきたくないと言っていました。
単にこずかい稼ぎ(それにしても安すぎる)か遊び相手探しだけなのだろうか・・・
>目黒さんはじめまして。
僕もかなり不思議に感じました。おそらく、カーオサーンに遊びに行った男をゲットするついでに小遣いを稼いでいるのではないかと思うのですが、もしかしたら彼女らの趣味の一環にすぎないかもしれないとも思っています。でも、やっぱり大学生達に囲まれて生活していると、ああいったどこの馬の骨だか分からないような人々を見ると、なんとなく清潔でないような気がしてモチベーションが全く高まらないのです。それにしてもバカ安いですよね。
>目黒さんはじめまして。
僕もかなり不思議に感じました。おそらく、カーオサーンに遊びに行った男をゲットするついでに小遣いを稼いでいるのではないかと思うのですが、もしかしたら彼女らの趣味の一環にすぎないかもしれないとも思っています。でも、やっぱり大学生達に囲まれて生活していると、ああいったどこの馬の骨だか分からないような人々を見ると、なんとなく清潔でないような気がしてモチベーションが全く高まらないのです。それにしてもバカ安いですよね。
この映画を会社の同僚と見に行ったのですが、一言「つまらない」との感想でした。
まあ、感性の違いもあるので何とも言えないのですが、僕にとってはタイの社会をうまく切り取ってる内容だと思って興味深く見ていたので、映画館を出る(タイ人はエンドロールになるとすぐ立ち上がるのがおもしろい。)時、多くの人が難しすぎてよくわからんと口にしていたのが印象的でした。
まだ多くのタイ人にとって映画は完全な娯楽の一つに過ぎず、そこから彼らが何かを見出したりするのは難しいのかなと思わざるを得ないことがよくあります。
そういう意味ではある部分制作者も不幸だなと。
この映画を会社の同僚と見に行ったのですが、一言「つまらない」との感想でした。
まあ、感性の違いもあるので何とも言えないのですが、僕にとってはタイの社会をうまく切り取ってる内容だと思って興味深く見ていたので、映画館を出る(タイ人はエンドロールになるとすぐ立ち上がるのがおもしろい。)時、多くの人が難しすぎてよくわからんと口にしていたのが印象的でした。
まだ多くのタイ人にとって映画は完全な娯楽の一つに過ぎず、そこから彼らが何かを見出したりするのは難しいのかなと思わざるを得ないことがよくあります。
そういう意味ではある部分制作者も不幸だなと。
僕が映画館から出たあとに聞こえてきた会話のほとんどが「寡黙な人は何を考えているのだかよく分からないから気をつけるに越したことはないよね」という内容の話でしたが、たしかに「タイ人にとって映画は完全な娯楽に過ぎない」という考えもある意味では本質を突いていると思います。
しかしこれは日本人観客についても言えることで、日本語で書かれている世界中の映画を紹介するサイトや、タイ文化紹介サイトなどにある映画のレビューを読んでみると全く同じことが言えるのではないかということに気付かせられます。要は観客の能力次第ということができると思います。
ちなみにCSのある理論を応用して考えてみると、この映画は観客に意識させないアプローチを用いて、人々の深層心理の中に階級社会という考えを浸透させ受容させるという効果を狙ったものという見方もでき、そのあたりでは体制側に属する制作者の意図は非常に巧妙かつ効果的なかたちで伝達されたということもできると思います。
こう書いてしまうと、僕がCSの信奉者のように聞こえてしまうかもしれませんけれども、CSって何かと便利な理論(?)をいろいろと提唱しているので雑多なことの説明のために試験的に使ってみたりしています。
僕が映画館から出たあとに聞こえてきた会話のほとんどが「寡黙な人は何を考えているのだかよく分からないから気をつけるに越したことはないよね」という内容の話でしたが、たしかに「タイ人にとって映画は完全な娯楽に過ぎない」という考えもある意味では本質を突いていると思います。
しかしこれは日本人観客についても言えることで、日本語で書かれている世界中の映画を紹介するサイトや、タイ文化紹介サイトなどにある映画のレビューを読んでみると全く同じことが言えるのではないかということに気付かせられます。要は観客の能力次第ということができると思います。
ちなみにCSのある理論を応用して考えてみると、この映画は観客に意識させないアプローチを用いて、人々の深層心理の中に階級社会という考えを浸透させ受容させるという効果を狙ったものという見方もでき、そのあたりでは体制側に属する制作者の意図は非常に巧妙かつ効果的なかたちで伝達されたということもできると思います。
こう書いてしまうと、僕がCSの信奉者のように聞こえてしまうかもしれませんけれども、CSって何かと便利な理論(?)をいろいろと提唱しているので雑多なことの説明のために試験的に使ってみたりしています。