タイ・バンコクで留学をはじめました

タイ・バンコクで留学をはじめるにあたって、日記をつけてみることにした。いつまで続けられるか今はまだ分からないが、日々の努力を怠らず、一日一日を大切に過ごし、あとになって自分でこの日記を読み返したときに、充実した日々だったと言えるよう心掛ける一つのきっかけになれば良いと思っている。

僕が19歳のころに、いまはもう付き合いがない大学時代の先輩に連れられてはじめてタイへ来たときには、なんと奇妙なところへ来てしまったのかといった違和感を持ったが、僕と同じ飛行機に乗ってタイをはじめて訪れた大学時代の別の先輩は、何食わぬ顔をして、ごくごく普通に振る舞っていた。この様子なら心配はなさそう、とそのときには思っていた。

ユナイテッド航空875便は、タイ時間の午後10時50分にバンコク・ドーンムアン空港へ定刻通り到着した。第2ターミナルビルの1階にある到着ロビーには、スィーナカリンウィロート大学の人文学部で日本語を学んでいるサと、彼女の友人で同じ大学に通っているトムとシューが迎えに来てくれていた。このような体験は初めてだが、現地の友人が空港まで迎えに来てくれるというのも、なかなか新鮮で良い感じがする。

互いに自己紹介をして簡単な挨拶を済ませたあと、空港の近くに住んでいるというトムは、ほかのふたりより一足早く帰宅していった。バンコクの中心部は、空港から20キロ以上も離れているはずだが、毎日わざわざこの距離を通学しているのだろうか? それとも、スィーナカリンウィロート大学は、バンコクの中心部から遠く離れている郊外にあって、このあたりから通っていてもそれほど苦にならないのだろうか? 大学の所在地については、いずれ分かることだから、きょう尋ねるのはやめておこう。

僕と先輩は、空港からサとシューとともにタクシーに乗り込んだ。サたちの両親は、学生が深夜の時間帯に出歩くこと対して否定的なようで、すぐに帰らないといけないと話していた。たしか、サの年齢はまだ18歳だったと思う。

高架電車アーリー駅のちかくで、サたちはタクシーから下車して家路についた。ふたりは兄弟姉妹なのか、それともただのご近所さんなのか、最後まで分からないままだったが、いずれ判明することなので、これもとりあえずは保留としておこう。

僕と先輩のふたりは、ラッチャッダーピセーク1街路にあるタナタウィーパレスというアパートに宿泊することにした。月極の部屋もあるサービスアパートメントだが、ホテルのように清潔なうえ、1部屋あたりの宿泊料金も1泊750バーツと、とても手頃だった。先輩が空腹を訴えていたので、チェックインの手続きをして、部屋に荷物を置いてから、アパートの近くにあったバミー屋台へ行ってみたところ、先輩は薄暗い街路を走り回っているゴキブリやドブネズミを見つけてとても驚いていた。タイの屋台料理は、キレイ好きの人にはあまり馴染まないのかもしれないが、バミーの味自体はそこそこ気に入ってもらえた。

その後、外国人のパックパッカーたちのあいだで人気がある繁華街のカーオサーン通りまでタクシーに乗って行ってみたが、すでに午前1時を回っていたため、まだやっていたのはコンビニのファミリーマートぐらいなもので、飲食店はどこも閉まっていた。念のために、ちかくの工事現場で働いていたタイ人の男性に、ディスコはすでに閉店したのかとタイ語で確認してみたところ、 ปิดแล้ว(ピットレーオ:すでに閉店した)という答えが返ってきたので、やむなく諦めて、午前3時頃にはラッチャダーピセーク1街路にある宿泊先まで戻ってきた。

なんとしても、タイならではのカルチャーショックを先輩に体験してもらいたいといった興味本位から、6時間もの飛行機の旅で疲労困憊していたところを半ば強引に連れ出してみたものの、その試みは失敗に終わってしまった。先輩は相当にゲンナリとしている様子だった。発展途上国ならではの食品衛生に関する意識の低さと、舗装状態の悪い道路はとても受け入れられないと話していた。それと、カーオサーン通りで見かけた日本人に対して、強烈な違和感があったようだ。この街は、もしかしたら、保守的な考え方の日本人にはとことん向いていないのかもしれない。

ABOUTこの記事をかいた人

バンコク留学生日記の筆者。タイ国立チュラロンコーン大学文学部のタイ語集中講座、インテンシブタイ・プログラムを修了(2003年)。同大学の大学院で東南アジア学を専攻。文学修士(2006年)。現在は機械メーカーで労働組合の執行委員長を務めるかたわら、海外拠点向けの輸出貿易を担当。