「レーシックがどのようなものか、十分に理解できましたか? あなたはレーシックを受けることを納得ずくで決めましたか?」
午後1時、アソークモントリー通り(スクンウィット21街路)にあるラッタニン眼科病院ラッタニン・ギンベル視力矯正センターの診察室で、眼科医は、マニュアルにある患者への意思確認を怠らなかった。患者自身の意思による医療行為を基本とするインフォームドコンセントは、タイでもそれなりに定着している。
その10分前、アソークモントリー通りにあるオフィスビル「スーンミットタワー」の前は、昼の休憩を終えてオフィスへと戻るタイ人の会社員たちでごった返していた。大通りから伸びているスクンウィット21/3街路には、オレンジ色のゼッケンをつけているバイクタクシーがひっきりなしに行き交っており、そこから左折してアソークモントリー通りへ抜けようとしているクルマが長蛇の列を作っていた。
・・・・・・はずだったが、眼科医から検査前1週間のコンタクトレンズ装用を禁止されているため、周囲の風景を詳細に観察するはおろか、通りを行き交う人々の性別を判別することすらままならないような有様だった。
現在の裸眼視力は、左目が0.3、右目が0.2。近視度数は左目が0.75、右目が1.50で、利き目である左目には1.00の乱視が入っている。
スーンミットタワーの前にあるラーメン屋「太郎坊」で昼食をとってから、スクンウィット21/3街路へ出てタバコに火をつけようとしたところ、道路の真ん中で突然足がしびれて身動きがとれなくなった。あまりにも強烈すぎたため、仕方なくその場で立ち止まってからタバコに火をつけた。
「こんなところで何をやっているのよ? 先に行っているから、別のバイクタクシーに乗って付いて来なさい」
突然、見覚えのある顔が現れ、話しかけてきた。しかし、こんな人通りの多い場所で「足が痺れて動けない」と大声で叫ぶわけにもいかず、軽くうなずいて友人の後ろ姿を見送った。この友人には先日、不測の事態に備えて、今回のレーシックの手術前検査に付き合ってもらうように依頼していた。
――ああ、なんて格好悪いんだろう。
足のしびれが治まるのを待ってから、バイクタクシー(20バーツ)でラッタニン眼科病院へ向かった。
東南アジアの病院といえば、ほとんどの日本人はヘボくて田舎くさい診療所のようなものをイメージするかもしれないが、バンコクの私立病院に限っていえば日本の医療施設より遙かに豪華だ。今回レーシックを受けることになっているラッタニン眼科病院もその例に漏れず、内装にエメラルドグリーンのアクリル板をふんだんに用いているなど、信頼感と清潔感を巧みに演出している。
ラッタニン眼科病院の2階にあるラッタニン・ギンベル・レーシック視力回復センターの扉を開けて中へ入ると、女性の看護師たちが出迎えてくれた。スーツを着ている看護師たちのビジネスライクな話し方は、そこで働く医療従事者の質の高さを印象づけ、これから手術を受ける患者の不安を和らげてくれる。問診票の確認欄に必要事項を記入していたところ、先に出発していたはずの友人がやってきた。
手術前検査の内容はつぎのとおりだった。
- 予備視力検査 (小検査室:看護師, 視力測定機器を用いた視力検査は予備的な視力検査)
「この結果って、実はあんまりアテにならないんですよ。正確な数字はあとで先生に聞いてくださいね」 - 謎の検査 (大検査室:看護師, 赤い光を見続ける検査?)
「え? この検査って4時間もかかるんですか?」そう言って友人は職場へ戻っていった。 - 角膜厚・角膜形状検査 (大検査室:看護師, オーブスキャン(角膜形状記憶解析装置)で網膜の情報を測定。スリッド光と呼ばれる光の面で角膜を切り取って形状を分析。痛みはない)
「目をお~~っきく開けてください。はい、いち、にーの、さん」 - カウンセリング (診察室:眼科医, 眼科医による手術内容説明と質疑応答)
「私は第一の選択肢としてレーシックをお勧めします。こちらの方が視力が良くなるんですよ。目をゴシゴシするのも、3週間も我慢すればフツウにできるようになりますし。 PRK はレーシック施術に必要な要件をクリアにできなかったときに施す次善の策です。このコンピューターグラフィックを見て質問等はありますか?」 - 全眼部検査 (診察室:眼科医, 顕微鏡で角膜、虹彩、水晶体の異常を検査)
「極めて正常。まったく問題はありません」 - 眼圧検査 (診察室:眼科医, 謎の機器を眼球に当てた。怖いけど痛くはない)
「機器が目にあたるかもしれませんが、目にダメージを与えることはありませんので安心してくださいね」 - 視力検査 (診察室:眼科医, メガネを作るときのような視力と乱視率の測定)
「これが1のレンズ、そしてこれが2のレンズです。どっち方がハッキリ見えますか?」 - 謎の検査2 (大検査室:看護師, 目薬で瞳孔を拡張させてから再度行った)
- 角膜厚・角膜形状検査2 (大検査室:看護師, 目薬で瞳孔を拡張させてから再度行った)
「もしかしたら眩しく感じるかもしれませんが、ちゃんと歩けますか? 患者さんのなかには、ときどき涙が止まらなくなる人もいるんですよ。まあ、4時間は本を読めないと思ってくださいね」 - 屈折力検査 (大検査室:看護師, 角膜の光を曲げる力を調べる)
「この4つの数字のうち、浮き上がって見えるものを言ってください」 - ⑪ 視力検査2 (診察室:眼科医, 瞳孔が拡張した状態で再度視力を検査した)
- ⑫ 眼底検査 (診察室:眼科医, 網膜周辺部の状態を検査)
一連のレーシック手術前の検査はおよそ2時間で終了した。検査費用は1,000バーツだった。
この検査の予約を入れた今月16日、女性看護師から「絶対にクルマで来ないでくださいね」と再三にわたって念を押されていた。ラッタニン眼科病院からアソークモントリー通りへ出てみると、あまりの眩しさに目を極限まで細めた。瞳孔の大きさを検査したときに用いられた目薬で瞳孔を全開にされていた影響で、どこを見ても、まるで太陽を直視しているかのように眩しかった。正面にあるはずの大手コンテンツプロバイダ G”MM’ GRAMMY の本社ビルの位置すら分からず、自分がどこを歩いているのか皆目見当がつかないような状態だった。アソークモントリー通りを南へ向かってヨロヨロと歩いていたところ、ちょうどアソークタワーの前にある屋台でおやつを買っている友人にバッタリと出くわした。
「いくら陽気が良いとはいっても、よりにもよってこんな時を選んで歩かなくてもいいのに。タクシーかバイクタクシーに乗って帰りなさい。この先にある細い街路でクルマにでも轢かれたら、それこそ眼科の手術どころでは済まなくなるわよ」
友人はそう勧めてくれたが、そのまま住まいがあるスクンウィット13街路まで歩いて帰った。部屋へ戻るまでに、目を完全に開くことはできなかった。
帰宅後、友人が買ってきてくれたタイ料理を食べた。夜、スクンウィット22街路にある大衆食堂「栄ちゃん」へ行って別の友人と焼酎を飲み、高級日本料理店 MARU でさらに別の友人と会った。午前1時に帰宅し、午前7時までさらに別の友人と長電話した。こんな長電話は高校時代ぶりだ。内容のアホさ加減も生まれて初めてのことだった。