「わたしたちのグループ、大学院・文学修士の順番が近づいてきたら、職員が来て合図をしてくれるはずだから、そうしたら全員そろって起立一礼をして、ステージの左手前にある待機場所まで歩いて行って。自分の前にいる卒業生のあとに続いてステージに上がると、足元に敷かれている赤い絨毯の上に0番から9番までの数字が書いてある金色のパネルがあるから、前の人が移動するのと同時に次の番号が書かれているパネルまで2歩で移動する。パネルの上で立ち止まっているときに、自分の身体を常に王女の方へ向けておくことを忘れないようにしてね。そして8番まで来たら礼をして、9番の真上で王女から学位記を受け取る。受け取るときに礼をする必要はないわ。学位記を受け取ったら、急いで大きく4歩後退して再度一礼。ここでグズグズしていると、つぎの人の記念写真に自分の姿が映り込んでしまって、とても不格好なことになるから気をつけてね」
午前9時20分、ヂュラーロンゴーン大学の講堂では、学位下賜式(学位授与式)の2回目の予行演習が行なわれていた。隣の席に座っているクラスメイトは、そのように言って、1回目の予行演習に参加しなかった僕にアドバイスをくれた。この予行演習は、国王の代理人であるプラテープ王女から学位記の下賜を受けるすべての卒業生に参加が義務づけられているもので、2回ある予行演習のうち最低でも1回は参加しておかないと本番の参加資格を失う。
タイ人のクラスメイトたちは学部を卒業したときにこの พิธีพระราชทานปริญญาบัตร(ピティープララーチャターンパリンヤーバット:学位下賜式)を経験しているため無難にこなしていたが、外国の大学を卒業してタイへやって来た僕とふたりのラオス人クラスメイトは、不慣れなこともあって、普通では考えられないような失敗を毎回のように繰り返し、そのたびにステージの隅にいる大学の職員から呼び出されて指導を受けた。
「王女殿下の前へ歩み出て9番のパネルを踏んだら、まず右腕の肘から先の部分だけをまっすぐに前へ出して、つぎに右手首から先の部分を縦にしたまま軽くあげ、殿下に対する敬意を示します。このとき、手首から手前の部分を上へあげてはいけません。軽くあげた手を元の位置へ戻すのと同時に、殿下から差し出されている学位記の右側面を掴み、殿下に自分の手の甲が見えるようにして学位記を自分の胸元へ素早く収めます」
小学校の学芸会を思い起こさせる入念な予行演習は、4時間にもおよんだ。
きのう28日、東京の本社で朝一番に行われた会議に出席してから休暇を取って一度帰宅し、荷造りをして成田空港へ向かった。機材の不具合のため定刻より4時間25分遅れの午後10時50分に出発したユナイテッド航空の UA837 便は、翌29日の午前3時40分にバンコク・ドーンムアング国際空港に到着した。クルマを運転して空港まで迎えに来てくれた留学時代の友人と久々の再会を果たし、身支度を整えるために、プララームスィー通り(ラーマ4世通り)にある安ホテルへ移った。サームヤーン市場の近くにある食堂で朝食をとり、午前8時半からヂュラーロンゴーン大学の講堂でおこなわれた学位下賜式の2回目の予行演習に参加した。その後、 友人の採用面接のためにナラーティワートラーチャナカリン通りにある高層ビル「インペリアルタワー」に入っているスタンダード・チャータード・タイ銀行の本店へ立ち寄り、セントラル百貨店のピングラーオ店でタイスキの昼食をとってから、美容室へ行ってストレートパーマをかけた。ほかの友人たちと合流し、プーミポン・アドゥンヤデート国王即位60周年を記念してライトアップされている王宮周辺の様子を見物したのちに、ホテル「ザ・ツインタワーズ」にチェックインした。
現在、日本に帰国してから正社員として勤務している民間企業で、通常の約20倍というスピードで任地が変わる「超高速ジョブローテーション」の真っ只中にあって、慌ただしいことには十分慣れているつもりだったが、それでも昨日から今日にかけてのスケジュールはあまりにもハードすぎた。
文学部のインテンシブタイプログラム(集中タイ語講座)でタイ語の勉強をはじめた4年前から通い続けてきたヂュラーロンゴーン大学の構内へ3ヶ月ぶりに足を踏み入れ、大学院の東南アジア研究科に入学してから2年以上も同じ教室にいたクラスメートたちと何食わぬ顔をして普通に言葉を交わしたところ、郷愁とも似ている、なんとも言い難い不思議な感覚がした。