午前8時にヂュラーロンゴーン大学文学部前で東南アジア研究科のクラスメイトたちと待ち合わせ、研究室がチャーターしたロットゥー(12人乗りバン)に乗って、難民キャンプの調査のためにターク県メーソート郡にあるメーラ村へ向かった。
ミャンマーの少数民族「カレン族」は、ミャンマー連邦からの離脱を企てていたため1988年にクーデターで政権を掌握した国家法秩序回復委員会による強制移住や強制労働などの厳しい弾圧の対象となり、難民化してタイ側へ大量に流れ込んだ。
午後3時半にメーソート郡に到着し、タイとミャンマーの事実上の国境となっているムーイ川の東岸(タイ側)にあるメームーイ市場に立ち寄って土産物を調達した。
この付近の国境線は依然として未確定で、メームーイ市場がある写真①の領域はタイ領、②の領域はミャンマー領、③の地域は帰属が未確定な領域となっている。タイとミャンマーの国境ゲートは市場の南にあるムーイ川に架かる橋(通行料金10バーツ)の両端にあるけれど、ミャンマー人はこの橋を渡らず、ムーイ川の浅瀬を渡ってタイ側へやってくるという。
不法に越境してくるミャンマー人について、メームーイ市場にある軽食屋店主に聞いてみた。
「以前は(③で示した)帰属未確定領域にも市が出ていたが、昨年バンコクで催されたAPECのときタイの当局に閉鎖されてしまった。タイ人がこの川を渡ってミャンマー領に入ることはまずないが、ミャンマーの少数民族『カレン』は荷物を抱えて越境してくる。カレン族がミャンマー側からタイ側へ持ち込んでくる荷物は中国からミャンマーへ流入したタバコがほとんどで、しかも品質保持期限が切れているものを中国人がミャンマー人に二束三文で売り払ったものだから、とてもではないが喫煙に耐えうる品質ではない。実際のところ、ミャンマー人たちが売りに来るものはほとんどがロクでもないものばかりだ。ロクでもないといえば、その最たるものはミャンマー政府だ。彼らにはロクな民生政策がないうえに、国民に自力救済を強いており、軍の装備も老朽化が著しくて使い物にならない。国民も馬鹿ばっかりで、とてもではないが話の通じる相手ではない」
また、この店主は彼らの置かれた事情を次のように説明した。
「だからといって、もしミャンマー国民が賢くなって、政府の不満を言い出したら大変だ。一言でも政治に関する話をすれば、すぐに政治犯として拘束されて即刻政治犯収容所行きになる。彼らは生活に関する支援を政府から一切受けられず、かといって政治的手段で自分の生活の向上を図ることもできないから、生きるためにもタバコを売りに来ざるを得ない。気の毒といえば気の毒だが、さしあたって俺たちにできることは何もない」
「あんたのミャンマー嫌いも相当なものだからね」
軽食屋の店主による演説会は学生8人を前に、彼の妻が頻繁に横から突っ込みを入れるといったスタイルで約30分にわたって繰り広げられた。少し長すぎるような気もしたが、自分が知らない話を個人的な視点で語ってくれたのは興味深かったし参考にもなった。
ミャンマー人の窮状については、明日以降の調査で徐々に明らかになると期待している。
ところで、滞在先のホテルで同室のカンボジア人から興味深い話を聞いた。これは今日の日記の主題ではないから概要だけにとどめる。
プノンペン大学講師の月給は45ドル。NGOなど民間から請け負った調査報酬は1日30-50ドル。妻(公務員)の月給は350ドル(破格の待遇とか)。使用人の月給45-50ドル。王宮から5キロ離れたところにある土地(5×16メートル)の値段は2000ドル。家の建設費4000ドル。ラナリット元第1首相はカンボジア人の誰もが認める無能者で、すでに現首相フンセンに排除されたのも当然の立場。内戦時のプノンペンは大騒ぎだった。プノンペンにいる日本人の大半は調査目的。外国人向けのゲスト街は王宮周辺の数百メートルのところにあって、一方はまとも、もう一方は麻薬利用者向けで酷く不潔。これらの地域は分かれている。プノンペン市内の外国人英語教師の質は低く、その大半は麻薬常用者だと考えて良い。彼らの報酬は時給2-20ドル程度で能力によって異なる。「俺自身の生年月日も今ひとつはっきりしていない。原始的生活を強いられていたポルポト時代にはカレンダーすらなかったから」。地名のカンボジア語読みは英語よりもタイ語に近い(ゴッゴングやポーイペートなど)。
きょうはターク県メーソート市内にあるホテル「ポーンテープ」に宿泊した。ヂュラーロンゴーン大学アジア研究所の研究員によると、メーソート市内ではこのホテルが一番まともで、唯一エレベーターがあるという。