タイにおける死亡保険金の不払い

常に強者は弱者の権利を踏みにじり、それに対して弱者は反論を唱えることすらできない。だから、資本家たちは貧民たちの問題解決能力の低さに漬け込んで好き勝手やっているし、一方の貧民たちも自力では資本家に対抗できない悟って端から諦めている。

午後6時、それまで文献を読むために居座っていたスクンウィット5街路にある Starbucks Coffee を出て、気分転換にビールでも飲もうと、外国人向けの Go Go Bar が密集している性風俗コンプレックス「ナーナー・エンターテインメントプラザ」へ向かった。しかし、Go Go Bar が開店するのは午後7時半なので、それまでの時間を屋外にあるバービア(娼婦との語らいバー)でつぶすことにした。

適当に空いている椅子を見つけて腰を下ろし、バーカウンター越しの娼婦にビールを注文すると、暇そうにしていた別の娼婦が隣の席に来て話しかけてきた。

この娼婦の携帯電話には、おおむね10分間隔で姉からの着信があった。今晩、姉が急用のためタイ東北部のローイエット県にある実家へ帰郷するという。詳しく話を聞いてみると、この娼婦の一家が抱えている問題が徐々に明るみになっていった。

  1. オームスィン銀行(政府系の貯蓄銀行)の保険外交員に勧められて、2000年に娼婦の母親(当時52歳)が死亡保険金200,000バーツの生命保険に加入した。月々の掛金は625バーツで、加入時に健康診断書の提出は求められなかった。母親はもしもの場合に7人の子どもたちに死亡保険金を分け与えるつもりだったという。
  2. 契約してから約4年が経過した2004年に母親が56歳で病死した。
  3. 遺族がオームスィン銀行のローイエット支店に対して保険金の支払いを求めたところ、パッタナーガーンにある支店へ行くように指示を受けた。
  4. パッタナーガーン支店の保険担当者は、契約時の健康診断書がないことを理由に、保険契約を無効と判断して保険金の支払いについても拒否した。遺族側が裁判所に訴えると通知したところ、それまで支払ってきた掛金の全額、約30,000バーツの返還を申し出てきた。このとき、遺族側は掛金の返還を受けなかったものの、保険証券等の契約書類をすべて銀行に渡してしまった。

保険証券がなければ、掛金の返還も死亡保険金の支払いも要求できない。

故人である娼婦の母親は、タイ東北部(イーサーン地方)の典型的な貧農の家に生まれた。小学校4年生までの教育しか受けておらず、政府系銀行に対する信頼もあって、保険外交員の言葉をなにひとつ疑うことなく完全に信じ切っていた。この娼婦によると、似たような話は近隣の村々で何十件も起きているが、変に騒ぎ立てると地方の有力者に睨まれて殺されてしまうのではないかと恐れ、誰も公の場に訴えられないでいるという。

故人の保険加入時の判断もまずかったが、死亡後の遺族の対応はもっとまずかった。それでも、貧農の無知に付け込んで無意味な保険契約を締結し、掛金すらガメてしまおうというオームスィン銀行のやり口は悪辣としか言いようがない。

強者は弱者からの搾取によって成り立っている。

この件に関するタイ北部出身のクラスメートの話。

「タイにおける国民の権利は非常に限られている」

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バンコク留学生日記の筆者。タイ国立チュラロンコーン大学文学部のタイ語集中講座、インテンシブタイ・プログラムを修了(2003年)。同大学の大学院で東南アジア学を専攻。文学修士(2006年)。現在は機械メーカーで労働組合の執行委員長を務めるかたわら、海外拠点向けの輸出貿易を担当。